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relax, love.

『本能と制度』ジル・ドゥルーズ

本能と呼ばれるもの、制度と呼ばれるもの、これらは本質的には、満足を得るための異なった手段を示している。あるときには有機体は、その本性に合った外部刺激に反応しながら、外部世界から、自己の傾向性や欲求を充足させるためのさまざまな要素をとり出してくる。これらの要素は、動物の種に応じて、それに特有の世界をつくりあげるのだ。また、あるときには主体は、みずからの傾向性と外界との間に、独自の世界を確立〔=制度化〕することによって、数々の人為的な充足手段をつくりあげる。これらの手段は、有機体を自然状態から解放し、別の事象にしたがわせ、傾向性そのものを、新たな環境にもたらすことによって変形してしまう。まさしく、金銭はそれを手に入れれば、飢えからの救いとなるし、結婚は、相手を探す手間をはぶき、ほかの仕事ができるようにしてくれる。つまるところ、あらゆる個体的な経験は、その経験のなされる場があらかじめ存在しているということを、アプリオリに前提しており、その場が、種に特有のものであったり、制度的なものであったりするわけである。本能と制度とは、ありうべき満足をめざして組織された二つの形態なのだと言うことができよう。p75-76

 

 

哲学の教科書---ドゥルーズ初期 (河出文庫)

哲学の教科書---ドゥルーズ初期 (河出文庫)

 

 

 

『勉強の哲学 来るべきバカのために』千葉雅也

1、言語偏重になること

 

勉強は、これまでの「ノリ」から自由になるための自己破壊的な行為。

 

「ノリ」=同調圧力=環境のコード=他者関係

 

有限性とつきあいながら、自由になる。

 

環境のコードは強制的な事態。なんとなくそれを生きてしまっている状態。言語能力とむすびついている。

 

言語それ自体は、行為から切り離して使える。環境のコードに拘束されないことができる。言語の他者性。言語の物質性。

 

ある「ノリ」から「別のノリ」に移動すること。二つの「ノリ」の間で引き裂かれるときに、現実から浮き上がる「器官なき言語」。ただの音としての言語。不透明な物質性を発揮する言語。

 

今の環境とは別の可能性を、言語の力で想像すること。

 

・道具的な言語使用(言語行為、外部目的的)

・玩具的な言語使用(詩、自己目的的)

 

人には苦しい環境の「ノリ」にさえ癒着してしまうマゾヒスティックな面がある。

 

自由になるためには、道具的な言語使用を減らし、玩具的な言語使用を増やす必要がある。それを、言語偏重になること、という。

 

2、アイロニー、ユーモア、ナンセンス

 

・道具的な言語使用=保守的=「ノリ」がいい

・玩具的な言語使用=批判的=「ノリ」がわるい

 

浮いた語り=勉強=自由

 

・「ツッコミ」=「アイロニー」=疑って批判=わざと

・「ボケ」=「ユーモア」=ズレた発言=天然

 

知性と同時にキモくなる増量期から、知性を維持しつつキモさを減らす減量期へ。

 

環境のコードはそもそも不確定で揺らいでいる。

 

⑴最小限の「ツッコミ」意識

⑵「ツッコミ」:コードを疑って批判する

⑶「ボケ」:コードに対してズレようとする

 

そもそも不確定なコードの不確定さをあぶりだすこと。「ナンセンス」にまではいかないほどのほどほどの範囲で。

 

ソクラテスは「アイロニー」によって相手の根拠をしつこく疑い、コードを転覆しようとしたが、「アイロニー」は究極の根拠をなどというものには決して到達できない。言語は、環境に依存した用法でしかない。

 

しかし、それは複数ある。諸言語の旅。

 

「ユーモア」はコードを破壊するのではなく、別の知見をもってきて、コードを拡張させることで、コード変換させる。方向=目的喪失の感覚。

 

・「ユーモア」の過剰:コード変換による脱コード化

・「アイロニー」の過剰:超コード化による脱コード化

 

自己の享楽的なこだわりによって言語を仮固定する「縮減的ユーモア」。

 

3、来るべきバカ

 

自分がどのような環境のコードに合わせているのかを確認する。そしてそれを「問題化」する。

 

身近な問題意識もすべては「大きな構造的問題」のなかにある。それを「抽象的なキーワード」で抽出する。

 

環境の「大きな構造的問題」に「ツッコミ」を入れる。

 

「抽象的なキーワード」はなんらかの「専門分野」にあてはめることができる。「直接的分野」と「間接的分野」。

 

・「アイロニー」的なテーマ出し=「追究型」

・「ユーモア」的なテーマ出し=「連想型」

 

信頼できる情報に基づく比較を、自分なりに引き受けて、仮の結論を出す。 

 

自分なりに考えて比較するというのは、比較を享楽的に「中断」すること。

 

・「中断」:「まあこれだろう」

・「決断」:「決めたんだから、決めたんだ」

 

⑴環境の「ノリ」に合わせる:保守的な有限化

⑵「アイロニー」:決断による有限化

⑶「ユーモア」:比較の中断による有限化

 

「決断」は、比較検討なく、たんに偶然的なものを「真理」としてでっち上げて、絶対的な無根拠=絶対的な根拠状態に陥り、盲目的になり、自由どころか逆に他者への絶対服従となる。

 

決断主義を避けるために、絶対的なものを求めず、複数の他者の存在を認めること。ある結論を仮固定しても、比較を続けること。勉強を継続すること。 

 

勉強を有限化するためには、信頼できる情報を比較するなかで、自分の享楽的なこだわりによって仮固定しつつ、それを絶対化しないこと。

 

享楽的なこだわりとは、自分の「バカ」な部分。それが私たちを行為へとプッシュアップする。

 

来るべき「バカ」は、「変化しつつあるバカさ」で行為する。来るべき「バカ」と、たんに周りの「ノリ」に合わせているだけの「バカ」とは、識別不可能になる。

 

Content

第1章 勉強と言語ーー言語偏重の人になる

勉強とは、自己破壊である

自由になる、可能性の余地を開く

目的、環境のカード、ノリ

自分は環境のノリに乗っ取られている

自分とは、他者によって構築されたものである

言語の他者性、言語的なヴァーチャル・リアリティ

二つのノリがぶつかる狭間から、言語の世界へ

言語の不透明性

道具的/玩具的な言語使用

自分を言語的にバラす

深く勉強するとは、言語偏重の人になることである

第2章 アイロニー、ユーモア、ナンセンス

自由の余地は、「浮いた」語りに宿る

ツッコミ=アイロニーとボケ=ユーモアで思考する

コードの不確定性

わざとの自己ツッコミと自己ボケ

コードの転覆

ナンセンスという第三の極

会話を深めるアイロニー

アイロニーの過剰ーー超コード化による脱コード化

新しい見方を持ち込むユーモア

ユーモアの過剰ーーコード変換による脱コード化

もうひとつのユーモアーー不必要に細かい話

「享楽的こだわり」と「非意味的形態」

アイロニーからユーモアへ

享楽のノリが究極のノリである

名づけの現場面ーー新たに言葉に出会い直す

第3章 決断ではなく中断

現状把握から問題化へ、キーワード出しへ

キーワードを専門分野に当てはめる

発想法としてのアイロニーとユーモア、追求型と連想型

勉強のきりのなさ

考えて比較をする

アイロニーから決断主義

比較の中断

こだわりの変化

欲望年表をつくる

メインの欲望年表ーー千葉雅也の場合

サブの欲望年表

メインの年表とサブの年表をつなげる

来るべきバカへ

第4章 勉強を有限化する技術

専門分野に入門する

読書は完璧にはできない

入門書を読む

教師は有限化の装置である

専門書と一般書

信頼性、学問の世界

読書の技術ーーテクスト内在的に読む

二項対立を把握する

言語のアマ・モードとプロ・モード

ノート術ーー勉強のタイムライン

書く技術ーー横断的に発想する

アウトライナーと有限性

結論

補論

参考文献

あとがき

 

 

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

 

『テクストの楽しみ』ロラン・バルト

 

あなたが書くテクストは、それが私を欲望する証拠を私に与えてくれなくてはならない。p12

 

読むことの楽しみはあきらかに、ある種の決裂から生まれる(あるいは、ある種の衝突から)。p13

 

文化やその破壊がエロティックになるのではない。エロティックになるのは、その双方の裂け目なのだ。p13-14

 

楽しみが求めるのは、放心の場なのだ。歓びの核心において主体をとらえる裂け目であり、切断であり、デフレーションであり、フェイディングなのだ。p14-15

 

大いなる物語の楽しみを生むのは、読むことと読まないことのリズムそのものなのである。プルーストや、バルザックや、『戦争と平和』を、一語一語読むものがいるだろうか?p23

 

私が物語において味わうものは、それゆえ、直接にその内容でもなければ、その構造でさえもない。むしろ、美しい包装に私が押しつける擦り傷である。p23

 

この読書を魅するのは、(論理的な)発展や、真理の剥奪ではなく、生成する意味の薄層である。p24

 

テクストを楽しみに応じて判断するというのなら、こんなふうに言ってすますわけにはいかない、ーーこれは良い、これは悪い、と。受賞作は決められないし、批評することもできない。なぜなら批評というものはつねに、技術的な狙いや、社会的な礼儀、多くの場合、想像上の口実を含むものだから。このテクストは完全なものになる余地があり、これはあまりにもこれであり過ぎるとか、これは充分にあれではない、といったふうに、規範的な述語の戯れで片づけて、配分したり、想像したりすることのできるものではない。テクストは(歌う声についても同様なのだが)、まったく形容を含まない判断しか、私から抽き出すことはできない、ーー「これ、これですよ!」、さらにまた、ーー「私にとって、これですよ!」。p26

 

テクストの活気(実際、これがなければ、テクストは存在しない)。それはテクストの歓びへの意志である。そこにおいてはじめて、テクストは要求を超え、おしゃべりを超越する。p27

 

楽しみのテクストーー満足させ、満たし、幸福感を与えるもの。文明からやって来て、文明と決裂することなく、読書の心地よい実践とむすばれるもの。歓びのテクストーー放心の状態におくもの、意気阻喪させるもの(おそらくある種の倦怠にいたるまで)。読者の、歴史的、文明的、心理的な基底だとか、その趣味、その価値観、その記憶の一貫性を揺り動かすもの、読者と言語の関係を危機に落とし入れるもの。p28

 

敵対者とは、テクストとその楽しみの排除を宣言する、あらゆる種類のうるさ型である、ーー文化的な順応主義による者にせよ、一徹な合理主義(文学の〈神秘主義〉を疑う)による者にせよ、政治的なモラリズムによる者にせよ、記号表現の批評による者にせよ、愚かしい実用主義による者にせよ、道化た愚行による者にせよ、言葉の欲望の喪失にひとしい、言説の破壊をこととする者にせよ。p29-30

 

テクストの楽しみ、それは私の身体がそれ自身の思念にしたがおうとする、この瞬間のことなのだーーなぜなら、私の身体は私とおなじ思念を持たないから。p34

 

いかにして批評を読むか?唯一の手段がある。(…)ーー私は楽しみの覗き屋になればよい。私はひそかに他人の楽しみを観察する。私は倒錯行為に耽る。注釈はそういう場合、私にとってテクストになり、フィクションになり、裂けた皮膜になる。p35

 

楽しみをあつかうテクストは短いものにならざるをえない(ちょうど人が「これだけ?ちょっと短いな」と言うように)。p36

 

楽しみは理解や感覚のロジックに依拠するものではない。それは漂流だ。(…)なにかしらニュートラルなもの?お分かりのように、テクストの楽しみはスキャンダラスなものだ、ーーそれが背徳的であるという理由によってではなく、一所不在であるという理由によって。p46

 

それは軽やかで複雑な、手入れされて、ほとんど軽率なおこないであればいい。頭の突然の動きとか、私たちが聴いているものをなにも聞いていない、私たちが聞いていないものを聴いている、一羽の小鳥の動きのような。p50

 

アンニュイは歓びから遠いものではない。それは楽しみの岸辺から眺められた歓びなのである。p52

 

言葉がエロティックでありうるのは、正反対の、どちらの場合でも度はずれな、ふたつの条件においてである、ーー過度にくり返されるか、あるいは逆に、その新しさによって思いがけない、味わい深いものになるか(…)。p85

 

古びないのは天気であって、アミエルの哲学ではないのである。p109

 

それはまさしくエポケーであり、中断であって、容認された(みずからによって容認された)あらゆる価値を、遠くからフリーズさせるものだ。(…)あるいはすくなくとも、楽しみが宙づりにするものは、意味内容の価値ーー(正義の)〈立場〉である。p132

 

 

テクストの楽しみ

テクストの楽しみ

 

 

『ロラン・バルト 言語を愛し恐れつづけた批評家』石川美子

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ロラン・バルトはなにがしたかったのか?権威主義的なもの、多数派、単一性、そういうものが嫌いだっただろう。たいして繊細なもの、少数派、複数性、そういうものが好きだっただろう。

 

作者の死を持ち出すまでもなく、解釈の多様性の側に立つこと。言葉を権威から解放すること。柔軟で繊細で優美なものにすること。

 

ミシュレプルーストへの愛好がバルトの文章への傾向を物語っている。

 

シーニュというものがあり、それは解釈に開かれている。社交界シーニュ、歴史的出来事のシーニュ

 

シーニュとはつまり解釈のこと。つねに少数派で、複数であるもの。相撲や俳句や皇居もすべて解釈に開かれたシーニュであること。

 

サナトリウムでは1日のうち18時間もベットに横たわっていることさえあった。ミシュレの文章などの気に入った箇所をカードに書き写したりしていた。

 

母を中心とした優しい世界に暮らしてきた。母を失ってからは悲しい喪に服しつづけた。

 

権威の側に立っていたら、繊細で優美なものは見えないし書けない。言葉の単一性にとらわれていたら、魅力的な多様性のあるシーニュの解読はできない。

 

言葉にたいする恐怖と愛。それはそのまま世界にたいする恐怖と愛だ。世界というシーニュを、とらわれることなく多様な解釈に開いていくこと。

 

それは断片的なものや小さなものへのまなざしによっておこなわれる。ひとつのシーニュ、その解釈。気のおもむくままに、とらわれなく。概念の輪郭をぼやけさせること。閉じ込められた概念の檻の鍵を開けてやること。

 

 

 

 

 

 

 

『沈黙』マーティン・スコセッシ

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マーティン・スコセッシ監督の『沈黙』を観てきました。窪塚洋介が好きなのでミーハー気分にまかせて観たものの、予想以上に重い感じで観終わった後の余韻がすごい。

日本に布教に行ったフェレイラ神父という偉い神父が消息を絶ったことから、その弟子の二人が彼を探しに日本に行くというお話。いざ日本に着いてみると、日本の片田舎ではキリスト教が変な感じの土着の新興宗教みたいになってたりして戸惑いつつも宣教師二人は対応していく。そうしていくうちに片田舎の信仰リーダーみたいなおじいちゃんとかが大名にばれて信仰をやめずに殺されたりして、結局宣教師も捕まってしまう。消息を絶っていたフェレイラが寺で修行してて宣教師はがっかりするけど、目の前の信徒を苦痛から解放するために宣教師もキリスト教を背教することにする。

背教は踏み絵をするだけで形式的に認められるというイージーな感じ。だけどそれができずに処刑されていく信徒たち。宣教師たち。いまの普通の日本人にはよくわからない感覚。信仰のために死ぬということ。信仰って、苦しいことがいっぱいある人生を生き抜くためにするものなんじゃないのか?っていう単純な疑問を抱く。

真理は、生きたいということであって、特定の信仰形式を遵守することじゃない。生き方の形式は国ごと集団ごとに違う。西欧のカトリック的信仰形式をそのまま日本に適応することはできない。大名はキリスト教を悪だと決めてかかってたけど、それは政治的な熟議の上でのことで、信仰云々によってではなかった。当時の宣教師たちはたんに布教のやりかたをよく考えられていなかったとみることもできるかもと思った。異教というのは主観的な判断にすぎず、民族や国家ごとにそれぞれの正教があって当然で、生きるために普遍的なところを共有し改善していくことができればいいだけなのにそれができない。考えてみれば、不思議なことだ。なぜ、信仰は対立し合うのか?生きるためにがんばることでなぜ力を合わせることができないのか?みんな仲良くするべきだという幼稚園でも教わるようなシンプルな倫理さえ人間は実現することができない。

まあそれはいいとして、イッセー尾形窪塚洋介浅野忠信らの演技はとてもよかった。キャラクターに個性をもたらしている(あとで説明するが、それこそが演技の下手さなのである)。それにくらべるとアンドリュー・ガーフィールドリーアム・ニーソンアダム・ドライバーらの演技は少し弱い。ほかのだれかでも代用が効く程度の演技だと思った(あとで説明するが、それこそが演技の上手さなのである)。

全編を通してキリスト教宣教師たちはとても弱く描かれている。思想の基盤すら脆くみえる。しかし、その弱さこそが、信仰の強さや普遍性を表しているとも思える。「こんな世の中で、弱い者の居場所はどこにある?」というキチジローの言葉が、強いメッセージとして印象に残った。思想的にも、権力的にも、弱い者。かれらのための「信仰」とは、いったいなんだろうか?

思うに、弱さはルサンチマンではない。ニーチェがそう言うようにキリスト教道徳はルサンチマン的支配の原理だと哲学界隈では周知されているが、おそらく支配と共存とはひとつの実践の言い換えでしかない。ルサンチマンの支配、ではなく、弱さの共存。キリスト教道徳については、そう言うべきではないか?弱さはそのままでは共存の力をもたない。そこで神という絶対的なものが取り入れられる。弱い者も強い者もひとしく従うべき神を想定することで、強い者の一人勝ちではなく弱い者にもまなざしが向けられる共存を実現できるとすること。

『沈黙』では、キリシタンを弾圧する井上の「石女は正妻となることができない」理論がとても真っ当な主張のように見える。しかし、そこでキリシタンと言われている無知蒙昧の民は、結局搾取されているだけだ。宣教師の布教は、一見他国からの侵略のように見えて、その実は支配そのものの解放と読むことができる。それゆえに、支配原理とは相容れない。そういうふうにも言える。仏教思想がキリスト教と対置されて描かれているが、問題は思想の対立にはない。むしろフェレイラ神父が寺で仏教を学ぶことでそうしたように、思想の対立をこえて共存することにある。

そう考えると、ほかの誰でも代用が効くようなリーアム・ニーソンアダム・ドライバーアンドリュー・ガーフィールドの演技が逆に説得力をもって見えてくる。弱い者とはまさしくほかの誰でも代用が効く者にほかならない。映画冒頭で映し出されるフェレイラ神父(リーアム・ニーソン)の、拷問に怯えきった表情。それをルサンチマン的な支配の方法だと見るものはいないだろう。いたら恐ろしい。「こんな世の中で、弱い者の居場所はどこにある?」という問いが強く迫ってくるいまだからこそ、わたしたちはもう一度あわれみの積極的な面にまなざしを向けるべきなのではないだろうか。

 

 

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)