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Fleur Aux Questions

よくあるご質問

企業のコナトゥス

とにかくオリジナリティ(=他にはないこと)が重要だ。

 

アーティストならともかく、企業ならなおさらそうだ。

 

そして、信頼を地道に積み重ねる努力が必要だ。

 

アーティストならともかく、企業ならなおさらそうだ。

 

アーティストはよくもわるくも自分の好きなように表現していればいいだけだが、

 

企業はつねに顧客のニーズに対してそれを満たすように表現しなければやっていけない。

 

オリジナリティとニーズを一致させていく堅実な積み重ねが、

 

企業の存続・繁栄(=コナトゥス)の唯一の方法、アルファにしてオメガだ。

 

しかし、これだけ似たようなモノで溢れかえっている市場において、オリジナリティなど望めるのだろうか? 

 

ましてや、ニーズに合致したオリジナリティなど、運に恵まれた限られた者の特権でしかありえない。

 

だから、ふつうはそれなりにオリジナリティのあるものをそれなりに絞られたニーズにフォーカスするのが精一杯だし、それでもちゃんとできれば十分シェアを獲得できる。

 

せめてそれくらいはできるように努力すること。なにも特別なことはない。堅実なトライアンドエラーの積み重ねだ。

 

毎日の、毎時間の、毎分の、毎秒の、「顧客とのやりとり」のひとつひとつが、生命線だということ。

 

そうした、目の前の一歩を度外視して、ひとつかみに成功するような奇策など、天啓のひらめきだけがなせる業だ。

 

ミュージシャンなら、まず目の前の一曲を作ること。作家なら、まず目の前の一文を書くこと。ひらめきはそんな過程の中で偶然訪れるかもしれないし訪れないかもしれない。

 

まず、やることだ。

 

デミアン・チャゼル『ラ・ラ・ランド』──いつかの夢

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気付けば日常に埋没していて、いつかの狂気や夢はどこかに消えている。狂気や夢、それはスポットライトを浴びるということ。他の誰でもない自分が表現されること。

 

セバスチャンが雇われピアニストとしてクリスマスソングを弾くシーン(BGM演奏家に徹する姿としてそれはそれで個人的にはかっこいいと思うけど)と対比される、途中からオリジナル曲を演奏し始めるシーンの、表現することの喜び。

 

セバスチャンとミアがグリフィス天文台プラネタリウムを見上げているシーンと対比される、宇宙まで踊りながら上昇して行くシーンの、恋に没入する喜び。

 

高速道路で人々が渋滞につかまっているシーンと対比される、人々が次から次へと車から飛び出て歌い踊りまわるシーンの、夢を見ることの喜び。

 

『ラ・ラ・ランド』は、そうした「日常と対比される喜び」の表現に満ち満ちている。それはもう狂おしいほどに。

 

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私は、感情の高ぶりとともに突然歌い踊り出すミュージカルというものがとても好きなのだが、『ラ・ラ・ランド』もまさにそういう表現の喜びを感じさせてくれる映画だった。

 

ジャズに詳しい人たちいわゆるジャズ警察や、映画に詳しい人たちいわゆるシネフィルの人たちの批判とか、そういうのは言わせておけばいい。そういう人たちは、こまかいことにとらわれて素直に感情を感じたり表現できない可哀想な人たちというだけです。

 

「セブスへようこそ」と言い、セバスチャンが弾き始める売れないピアニスト時代のオリジナル曲とともに映し出される、ありえたかもしれない二人の幸せの回想シーン。

 

そんなのもう泣くしかないじゃないか、ちくしょう、ずるいよ。

 

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Ost: La La Land

Ost: La La Land

 

 

 

花村太郎『知的トレーニングの技術』

 

知的活動には方法がある。世界にたいして何の方法ももたずに対峙することは、何をどうしていいかわからない目眩を起こさせる。

 

アントワーヌ・ロカンタンが吐き気をもよおしたように、世界とは何か不気味なもの、恐ろしいほどの混沌として私たちの目の前に広がっている。

 

世界の混沌を前にして、吐き気をもよおすことなくなんとかやっていくためには、世界を理解できるもの=分かるものにしなければならない。

 

分かるとは「分ける」こと、つまり世界の全体という混沌を、自分の立ち位置からある視点として見た対象としてとらえることだ。

 

こまかいことはどうでもいい。さまざまな方法や取り組み方の羅列を見ることは、暇つぶしにはいいが、本当に重要なのは、自分が何を見るのか、何を対象として世界から切り出すのか、ということだと思う。

 

知的活動の、労力を節約するためにパターン化する科学的側面ももちろん有用だけど、その方法では世界という混沌を見なかったことにするだけで、実は何も解決されていない。

 

夏目漱石が留学中に膨大な本を読んでも全然落ち着かず神経衰弱に陥ったとき、自分で文学というものの概念を作り出さなければ救われないと思ったように、私たちもまた、自分で世界というものの概念を作り出さなければ救われないのだと思う。

 

スピノザが死ぬほどの悩みに陥って『エチカ』を書いたように、誰もが自分なりの「道具」を使って自分なりのエチカを書かなければ救われないのだと。

 

 

 

 

嘔吐 新訳

嘔吐 新訳

 

 

 

文学論〈上〉 (岩波文庫)

文学論〈上〉 (岩波文庫)

 

 

 

知性改善論 (岩波文庫)

知性改善論 (岩波文庫)

 

 

 

 

 

 

 

スコット・デリクソン『ドクター・ストレンジ』

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ドクター・ストレンジ』観てきました。

 

ドクター・ストレンジは医者だったが事故で両手の自由を失い、治療を求めてエンシャント・ワンという魔術師に弟子入りする。

 

エンシャント・ワンが原作のような老人のいかにもな魔術師ではなく、ティルダ・スウィントン演じる謎の女性なのがいい。

 

マントがかわいかった。あと、最後にマイティソーが出てきたのがなんか嬉しかった。

旅──楽しさを装った絶望者と絶望者を装った楽しさ

 

楽しさを感じないのは、文章の細部をよく見ず、要約や主張のみを意識して読んでたからなのではないかと思った。

 

いままで読んだ本を再読して、なんとなく理解していたものを要約して自分の道具にしようと思うようになってから、その傾向は強くなっていた。

 

すぐに気づくことだが、どんな文章も、要約してしまえば、どれも同じような、どこかで見たようなことを述べているにすぎないように見えるものだ。

 

では、文章の細部とはいったいなんのためにあるのか?誰がなんのために書いているのか?…ナボコフは新しい世界を構築するためだと言っているが、おおむねそれに同意する。

 

文学は、私たちがすでに知っている世界や、一般的な観念を再認識したり整理したりするために書かれるのではなく、反対に私たちがいまだ知らない世界や、特殊な観念を新しく認識するために書かれるということ。

 

そう考えれば、文章の楽しさというものは、また違った表情を見せはじめる。私が陥っていた楽しさを感じない状態は、おそらく、すでに知っている世界や、一般的な観念しか書かない本の類(思想書や科学書、ビジネス書など)ばかりを読んでいたことが原因だった。

 

「はいはい、それね」とか、「ああ、まあ、なるほどね」とか、そういう、いわゆる再認識のバリエーションがいくつかあるだけの本は多い。書店に行けば棚のほとんどがそういう本で占められている。

 

私たちがいまだ知らない新しい世界や、特殊な観念に出会うことができる楽しい本を見つけること。ネットの検索からでも、書店の棚からでも、その羅針盤は、探索者や冒険家の手に委ねられている。

 

そう考え直したら、文章の楽しさになかば諦念を持っていた気分がすっと晴れたような気がした。楽しさを装った絶望者の群れの中から、絶望者を装った楽しさを探し出す。旅に出よう。