【短編小説】『ある島の不可能性』第8話

 手紙の筆跡は父の字によく似ていた。といっても、父の字なんてものは子供の頃に見たきりでよく覚えてはいなかった。そして私は思った。「私は父の何を知っているというのだろう?」と。あらためて考えてみれば、私は父のことをほとんど何も知らなかった。父の名、外見、それから厳格な性格、仕事では部下に慕われていること、母に対して優しい気配りができること。そんな表面的な部分しか、私は父のことを知らなかったのではないか。

 人間にはペルソナがある。ペルソナとはスイスの精神科医カール・グスタフユングの提唱した概念であり、人間が周囲の環境に適応するために演じる存在の仕方、つまり仮面である。高度に文明化された社会では、人間は常にこのペルソナを被っていて、暗黙の了解のうちに、そのペルソナこそがその人の本質的存在の表明であると誰もが認識して、関係を形成している。

 私は手紙をポケットに入れると、部屋を出た。部屋を出ると、正面には研究施設の裏口があった。裏口は回転式の自動ドアになっていた。私は右回りに回転する自動ドアを通って、研究施設の外に出た。外は真っ暗だった。時間を確かめるために腕時計を見たが、それは壊れて止まってしまっていた。さっき針が高速で回転していたときに壊れてしまったんだろうと、私は思った。