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Fleur Aux Questions

よくあるご質問

デミアン・チャゼル『ラ・ラ・ランド』──いつかの夢

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気付けば日常に埋没していて、いつかの狂気や夢はどこかに消えている。狂気や夢、それはスポットライトを浴びるということ。他の誰でもない自分が表現されること。

 

セバスチャンが雇われピアニストとしてクリスマスソングを弾くシーン(BGM演奏家に徹する姿としてそれはそれで個人的にはかっこいいと思うけど)と対比される、途中からオリジナル曲を演奏し始めるシーンの、表現することの喜び。

 

セバスチャンとミアがグリフィス天文台プラネタリウムを見上げているシーンと対比される、宇宙まで踊りながら上昇して行くシーンの、恋に没入する喜び。

 

高速道路で人々が渋滞につかまっているシーンと対比される、人々が次から次へと車から飛び出て歌い踊りまわるシーンの、夢を見ることの喜び。

 

『ラ・ラ・ランド』は、そうした「日常と対比される喜び」の表現に満ち満ちている。それはもう狂おしいほどに。

 

/

 

私は、感情の高ぶりとともに突然歌い踊り出すミュージカルというものがとても好きなのだが、『ラ・ラ・ランド』もまさにそういう表現の喜びを感じさせてくれる映画だった。

 

ジャズに詳しい人たちいわゆるジャズ警察や、映画に詳しい人たちいわゆるシネフィルの人たちの批判とか、そういうのは言わせておけばいい。そういう人たちは、こまかいことにとらわれて素直に感情を感じたり表現できない可哀想な人たちというだけです。

 

「セブスへようこそ」と言い、セバスチャンが弾き始める売れないピアニスト時代のオリジナル曲とともに映し出される、ありえたかもしれない二人の幸せの回想シーン。

 

そんなのもう泣くしかないじゃないか、ちくしょう、ずるいよ。

 

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Ost: La La Land

Ost: La La Land

 

 

 

花村太郎『知的トレーニングの技術』

 

知的活動には方法がある。世界にたいして何の方法ももたずに対峙することは、何をどうしていいかわからない目眩を起こさせる。

 

アントワーヌ・ロカンタンが吐き気をもよおしたように、世界とは何か不気味なもの、恐ろしいほどの混沌として私たちの目の前に広がっている。

 

世界の混沌を前にして、吐き気をもよおすことなくなんとかやっていくためには、世界を理解できるもの=分かるものにしなければならない。

 

分かるとは「分ける」こと、つまり世界の全体という混沌を、自分の立ち位置からある視点として見た対象としてとらえることだ。

 

こまかいことはどうでもいい。さまざまな方法や取り組み方の羅列を見ることは、暇つぶしにはいいが、本当に重要なのは、自分が何を見るのか、何を対象として世界から切り出すのか、ということだと思う。

 

知的活動の、労力を節約するためにパターン化する科学的側面ももちろん有用だけど、その方法では世界という混沌を見なかったことにするだけで、実は何も解決されていない。

 

夏目漱石が留学中に膨大な本を読んでも全然落ち着かず神経衰弱に陥ったとき、自分で文学というものの概念を作り出さなければ救われないと思ったように、私たちもまた、自分で世界というものの概念を作り出さなければ救われないのだと思う。

 

スピノザが死ぬほどの悩みに陥って『エチカ』を書いたように、誰もが自分なりの「道具」を使って自分なりのエチカを書かなければ救われないのだと。

 

 

 

 

嘔吐 新訳

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文学論〈上〉 (岩波文庫)

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知性改善論 (岩波文庫)

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スコット・デリクソン『ドクター・ストレンジ』

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ドクター・ストレンジ』観てきました。

 

ドクター・ストレンジは医者だったが事故で両手の自由を失い、治療を求めてエンシャント・ワンという魔術師に弟子入りする。

 

エンシャント・ワンが原作のような老人のいかにもな魔術師ではなく、ティルダ・スウィントン演じる謎の女性なのがいい。

 

マントがかわいかった。あと、最後にマイティソーが出てきたのがなんか嬉しかった。

旅──楽しさを装った絶望者と絶望者を装った楽しさ

 

楽しさを感じないのは、文章の細部をよく見ず、要約や主張のみを意識して読んでたからなのではないかと思った。

 

いままで読んだ本を再読して、なんとなく理解していたものを要約して自分の道具にしようと思うようになってから、その傾向は強くなっていた。

 

すぐに気づくことだが、どんな文章も、要約してしまえば、どれも同じような、どこかで見たようなことを述べているにすぎないように見えるものだ。

 

では、文章の細部とはいったいなんのためにあるのか?誰がなんのために書いているのか?…ナボコフは新しい世界を構築するためだと言っているが、おおむねそれに同意する。

 

文学は、私たちがすでに知っている世界や、一般的な観念を再認識したり整理したりするために書かれるのではなく、反対に私たちがいまだ知らない世界や、特殊な観念を新しく認識するために書かれるということ。

 

そう考えれば、文章の楽しさというものは、また違った表情を見せはじめる。私が陥っていた楽しさを感じない状態は、おそらく、すでに知っている世界や、一般的な観念しか書かない本の類(思想書や科学書、ビジネス書など)ばかりを読んでいたことが原因だった。

 

「はいはい、それね」とか、「ああ、まあ、なるほどね」とか、そういう、いわゆる再認識のバリエーションがいくつかあるだけの本は多い。書店に行けば棚のほとんどがそういう本で占められている。

 

私たちがいまだ知らない新しい世界や、特殊な観念に出会うことができる楽しい本を見つけること。ネットの検索からでも、書店の棚からでも、その羅針盤は、探索者や冒険家の手に委ねられている。

 

そう考え直したら、文章の楽しさになかば諦念を持っていた気分がすっと晴れたような気がした。楽しさを装った絶望者の群れの中から、絶望者を装った楽しさを探し出す。旅に出よう。

 

 

「私にとって」文章の楽しさとは何か?ーー冒険小説と詩的な観想文

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文章を読む楽しみは、考えれば

考えるほど遠ざかるのかもしれ

ない。楽しいとは何か考えだす                *楽しさは

と、楽しいという気分のモード                思考のなさ

ではなくなる。楽しいとは何か                にあると言

考えることじたいが楽しければ                えるだろう

いいが、そういうわけでもない                か?

ロラン・バルトにしても楽し

みを思索する『テクストの楽し

み』よりも、むしろ日記として

つづられた『喪の日記』のほう                *「私は悲

が(不謹慎ではあるが)、読ん                しみの中に

でいて楽しさを感じる。ここ数                しか生きた

年間、読んでいて単純に楽しく                くない」と

てスムーズに読み進めてしまっ                バルトは言

た本はデュマの『モンテ・クリ                った。

スト伯』が最後だったかと思う

が、やはり物語のほうが文章の

楽しさを感じさせるのだろうか

。とはいえ、フローベールの『

ボヴァリー夫人』とか、タブッ

キの『インド夜想曲』を読んだ

りしても、文章の楽しさはいま

ひとつ感じられなかった。これ

は一般論ではなく、「私にとっ

て」文章の楽しさは何かという

多分にバルト的な問題なのだろ

うか。それでは、「私にとって                *問題はい

」どんな文章が楽しさを感じさ                つも「私に

せるのだろう。私が文章に楽し                とって」そ

みを感じて読んだのは、前述の                れがどうで

モンテ・クリスト伯』や、中                あるかとい

学生の頃に読んだヘミングウェ                うことだ。

イの『老人と海』、浪人生の頃

に読んだトゥルニエの『フライ

デーあるいは太平洋の冥界』、

大学生の頃に読んだポーの『ア

ッシャー家の崩壊』などがまず

想起されるが、これらの物語に

どういう共通点があるか考えれ

ば、「私にとって」文章の楽し

さは何かがわかるだろうか。ま

ずいずれも、冒険小説と呼べる

と思う。海から牢獄へ、牢獄か

ら社交界へ。小屋から海へ、海                *トゥルニ

から小屋へ。海から無人島へ、                エにとって

無人島から大陸へ。街から辺鄙                、他者=他

な屋敷へ、屋敷から崩壊へ。移                人の目こそ

動する空間の変化をみれば、い                が混乱の原

ずれも日常の空間から非日常の                因だった。

空間へと移動している。そして

、非日常の空間で非日常な人物

や事物たちと出会う。あと、海

や山奥とかが多い。そういえば

ル・クレジオの『地上の見知ら                * 『物質的

ぬ少年』を忘れていた。これこ                恍惚』『悪

そ最高だ。冒険+詩的な観想。                魔祓い』『

わかった。私は、「冒険+詩的                調書』など

な観想」の文章に楽しさを感じ                もすぐれて

るのか。「冒険+詩的な観想」                詩的な観想

。冒険の舞台はもしかしたら、                文である。

どこでもいいのかもしれない。

海や山奥などの非日常性の高い

空間のほうが、人はより詩的に

なりうるという点で海や山奥が

多いのかもしれないが。冒険は

空間の移動より、未知の事物や

人物との出会いが冒険を冒険た

らしめるのだろう。

 

/

 

「詩的な観想」のほうは、定義

づけが難しい。それについて考

えることにしよう。詩的とはつ

まり、詩である。とはかぎらな

い。詩そのものは詩的ではない                *詩には決

。そして詩そのもは別に文章の                まりごとが

楽しさを感じさせない。詩はい                多すぎて、

つも小難しくて、なんかむかつ                あらゆるう

くのである。詩はお高くとまっ                るさ型の巣

ている。穂村弘が自由な短歌を                窟となって

お勧めするときでも、なんだか                しまってい

えらそうである。いらっとする                る。

。つまり楽しくはない。詩その

ものは楽しくない。詩的な文章

は、詩そのものになりきれなか

ったいわば出来損ないの文章で

ある。それがいい。村上春樹

んかは詩的な文章を書くと言え

るだろうか。詩っぽさはどこか

らくるのだろう?おそらく「…                *パスタを

?」という疑問の姿勢。未知を                茹でながら

定義づけることも詩でありうる                ロッシーニ

が、未知をそのまま言葉にする                を聴くこと

とき文章はいかにも詩っぽくな                だけで文章

る。そう考えると冒険はいちい                を書くとは

ち詩的でありうる。須賀敦子の                なんて不敵

紀行文はとても詩的である。檀                だろうか。

一雄の料理紀行文もまたとても

詩的である。もちろん須賀敦子

檀一雄も詩そのものではない

。散文である。散文と呼ぶほど

のこともないエッセイである。

ランボーはどうだろう。詩その

ものとは思えない。ランボーも                *『書簡で

また詩的な観想文を書いたと私                読むアフリ

は言いたい。街々との出会い、                カのランボ

ヴェルレーヌとの出会い。それ                ー』は、詩

らを詩っぽい気分で文章にした                を放棄した

というわけだろう。ロートレア                後のランボ

モンも同様だ。内面の冒険。詩                ーの文章や

っぽい気分でつれづれなるまま                足跡が読め

の。ドゥルーズが言いたかった                てとても面

のも同じだと思う。「自分の知                白い。

の先端で書くこと」。知らない

ものについて書くのでなければ

詩っぽくはなりにくい。

 

 

モンテ・クリスト伯〈1〉 (岩波文庫)

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老人と海 (新潮文庫)

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ポオ小説全集 1 (創元推理文庫 522-1)

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地上の見知らぬ少年

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ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)

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須賀敦子全集 第1巻 (河出文庫)

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檀流クッキング (中公文庫BIBLIO)

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記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)

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マルドロールの歌 (集英社文庫)

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書簡で読むアフリカのランボー

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