エッセイ

人間の絶滅について

事実としてのこの世界がこのようであること、その時にいわれる事実は人間から見ての事実であって、必然ではない。よって、この世界は人間の思考の及ばぬ次元において、まったく別様でもありうる。思弁的に言って、すべては突然崩壊しうる。かつ科学的に言っ…

何を書くかということについて

夏目漱石の文章における科学や哲学の話題は、登場人物の会話の中に自然に落とし込まれており、学術論文のような読みづらい文体ではない。会話文以外の部分でもつねに学者でないそこらの一般的教養を持った読み手が途中で投げ出さずに読めるように意識して書…

ラヴクラフトの小説について

ラヴクラフト の小説の主人公は、語り手としての役割を全うする。どこかに行き、人智をこえたものに出会い、それを後から振り返り、語る。 ラヴクラフトの語り手は、どこで語っているのだろうか?ーー生きているのか死んでいるのかさえはっきりしない。しか…

夜は暗く、深い。心の奥底の 不安や、欲望が意識の上にあ らわれてくる。抽象的な亡霊 が部屋の中を浮遊する。生き ることの意味…問いかけるこ と自体に意味があり、何の答 えもない「?」。いま、どこ にいるのだろう、この、何か は。そして、次の瞬間には…

悟りについて

いまの仕事をはじめる前、半年くらい無職だった。本を読んだり、一日中何もせずにただ座っていたりしていた。社会に参加していないと、ひとは孤独な観察者になる。金が無限にあれば、孤独な観察者をマスターして、悟りを開くこともできるだろう。悟りを開く…

見積り

過去を大きく見積っていると、現在に不足や欠乏を感じる。それよりもむしろ今がスタートだと思えば不足や欠乏のようなマイナス要素が意識を占めることなく、新鮮なプラスの気持ちで毎日に臨める。不足や欠乏を補填するための行為ではなく、新しい何かを追加…

働かずに食うことについて

働かずに食ってる連中は、基本的につまらないことに詳しく、蘊蓄をひけらかすことが趣味だ。言い換えれば、それくらいしかやることがない。よって働かずに食ってる連中は、当然つまらない人間に成り果てる。それが成功者の秘密だ。つまらなさを隠すために飾…

労働と余暇の自動機械

思想が現実を作るということはない。現実は基本的に利害によって作られる。人間は楽をして生きていたいと思う。夕方6時、駅のホームには帰りを急ぐ男女が戦に向かう侍のように群れを成して押し寄せる。目的は名誉ではなく、帰宅してYouTubeを観たり晩…

ある本について語ることについて──フォロワーとは何か / About talking about nice books - what is a follower?

素敵な本について書かれた説明文は、説明文という形式のために素敵な本の素晴らしさを伝えることに成功しない。 構造や背景を分析することでその本の素敵さが伝わるわけではない。それよりもむしろ、素敵な本のフォロワーとして、「ささやかな挿話」を捧げる…

書くべきことについて / About what to write

書くべきことがなくて書けない、と思う時がある。というより、いつもそんな感じがする。白紙を前にぼんやりして時間が過ぎる。そして、結局何も書かないままになる。 しかし実際は、書くべきことというのは、何でもいいからとにかく書いている途中でなんとな…

それ自体が目的としての文章

楽しさを感じないのは、文章の細部をよく見ず、要約や主張のみを意識して読んでたからなのではないかと思った。 いままで読んだ本を再読して、なんとなく理解していたものを要約して自分の道具にしようと思うようになってから、その傾向は強くなっていた。 …

「私にとって」文章の楽しさとは何か?──冒険小説と詩的な観想文

文章を読む楽しみは、それが何かと考えれば考えるほど遠ざかるのかもしれない。最近楽しく読めた本は、ロラン・バルト『喪の日記』、アレクサンドル・デュマ『モンテ=クリスト伯』、働き始める何年も前は、ヘミングウェイ『老人と海』、ミシェル・トゥルニエ…

日々のけむり

かろうじてまとまりを保っている 身体が精神によってなのか 精神が身体によってなのか 自分自身というものは 自分自身について何も知ってはいない 明日がくることも 今日がこうして過ぎていくことも かろうじてつかめる気がしている すぐにまた手からこぼれ…

ロラン・バルト 言語を愛し恐れつづけた批評家

ロラン・バルトはなにがしたかったのか?権威主義的なもの、多数派、単一性、そういうものが嫌いだっただろう。たいして繊細なもの、少数派、複数性、そういうものが好きだっただろう。 作者の死を持ち出すまでもなく、解釈の多様性の側に立つこと。言葉を権…

いまここにしか存在できないことについて──空間限定的存在としての人間、その絶望

キルケゴールの「あれか/これか」という実存的選択の不可避性(=実存的選択の強制)がある。ドゥルーズ的な「宙吊り」また、それを発展させた千葉雅也の「中間痴態」の態度、は現実の場においては必ず崩れ去る。現実の場においては「未決定性」も「並行的選…