小説

【小説】湖の現在

夜明け前に小屋を出発し、湖へと向かって散歩するのが好きだった。 まだ暗い森の中を歩く。 周囲にあるのは木々が風に揺れる音だけ。 道は暗くて見えないが、もう何度も通った道だから見えなくてもなんの問題もない。 湖へと辿り着く頃には朝になっている。 …

【小説】『雪解け』

一 ナオミが眠りから覚めてベッドのそばにある窓から外の景色を見るとそこには雪が降っていた。綺麗な埃のような、生命を宿した塵のような雪の結晶が、音もなく空から大地へと降り注いでいる。 真っ白な点が無数に散らばってビルや道路の境界は淡く溶け合い…

【小説】『ストレンジ・ゲート』

一 二〇代の輝かしいビジネス的成功を瞬く間に喪失して家も妻も失ったサイモン・ベネットは郊外の実家に戻り、初老になる父が店じまいをする予定だった地下鉄の駅近くにある小さなグロサリーの跡を継いだ。‬‪ 日々のつつましやかな生活をぎりぎり継続させる…

【小説】『いつもの』

一 田中雄一が20年間欠かさず続けている週に一度の楽しみは、仕事帰りに行きつけのバーでウォッカを飲むことだった。 その日もいつもと変わらない仕事を終え、ちょうどよく疲れた身体を夜風に揺られながらバーに入り、いつも座る店の奥の端っこの席に座り…

【小説】『転職』

山下里生は大学を卒業してから三年ほど働いた仕事を辞め、家に引きこもるようになってもう半年が過ぎた。 転職サイトに登録して30社ほど面接や試験を受けてはみたものの、世の中の不況の影響もあり、里生の働きたいと思うような条件を満たす会社にはどこに…

【小説】『扉』

内歩市のとあるバーにはいつもすり減った男たちがそれぞれ一人で酒を飲んでいる。 薄暗い店内の中央にはビリヤード台があり、壁際にはピンボール台があるが、誰も使っていない。 男たちはただ黙って座っていて、時折ひとことふたこと言葉を交わすだけだ。 荒…

【小説】『神』

彼は小さなアクリルケースの中に一匹の虫を飼っていた。何もないアクリルケースの中をあてどなく彷徨うその虫を見て、彼は自分がまるで一つの生命の運命を支配する全能の神になったかのように感じるのであった。ある時、彼はその虫を人差し指で潰して殺して…

【小説】『島』

一 島の半径は一キロメートルにも満たない。この島に漂着してから一ヶ月が過ぎ、どこに何があるのかはだいたいわかった。一ヶ月前私はハワイ島から離島に向かうツアーに参加した。甲板で透き通る美しい海を眺めていると、突然天候が変わり、激しい嵐に呑まれ…

【小説】『呪文』

タカハシくんはノートの端にいつもなにやら見たこともないような文字を書いていた。それから数学の授業でも見たこともないなんらかの図形も。 放課後の帰り道で僕がタカハシくんにいつもタカハシくんはなにを書いているのと聞くとタカハシくんは言った。 「…

【小説】『湖』

湖までの距離はあと1kmくらいか。朝5時に山小屋を出てから50分ほど歩いてきた。特に目的もなく湖に行くと決めたのはひどい咳で深夜3時に目が覚めてしまったからだ。とにかく何か新しい静謐な感覚が必要だと感じられた。過去を大きく見積っていたのだと思っ…