【エッセイ】ヴァレリーの『カイエ』

ヴァレリーは早朝まだ暗いうちから起き、朝にかけて日記のような思考を書きつけた。

それが後世あらゆる他の作家に引用されることとなる『カイエ』である。

モンテーニュパスカルにもそのようなテクストがある。いわゆる『エセー』や『パンセ』である。

それらはあえてひとくくりにするならばエッセイの類である。

思考の跡=トレースを残す行為。

それがなんのためになされるかといえば、世界を解釈するためであり、世界に向けて思考の型を提示するための準備や試作のようなものである。

テーマは多岐にわたる。哲学、文学、科学、政治、宗教、心理学、人間観察、その他諸々。

エッセイはその人が世界の中で生きて、世界をどう見たか、世界にどのような変化や影響を与えようとしたかの跡が残されている。

小説や詩が完成され提供される料理のようなものだとすれば、エッセイは素材や「だし」のような位置付けといえる。

ようするにエッセイを書くことは、料理を作る前に素材を集めたり、味のベースとなるだしをあらかじめ仕込んでおくことのようなものだ。

人によっては、そのようなテクストを創作ノートやネタ帳と呼ぶ場合もある。

エッセイはそこで完結するために書かれるわけではない。

それを応用して組み合わせて、小説や詩を作るためのものだ。

だから作家の書いたエッセイを読むと、その作家の小説のもととなったであろうアイデアやヴィジョンが端的に試作のようにメモのように書き残されている場合が多い。

エッセイが面白くなるのは、それを書く先に小説やその他の完成され提供されるべき作品が見越されている場合である。

なんらかの予期や期待を込めたヴィジョンの雛形がある場合、エッセイは面白いものとなる。

短編小説のなかでもごく短い文章量のものは、エッセイと似た役割を持たされていることがある。

そういう短編小説は、中編や長編小説の素材となっている場合が多く見受けられる。

短く小さいアイデアやヴィジョンが広く展開するその広さに応じて中編なり長編なりその後の小説の長さが決まってくる。

長編にまで発展するヴィジョンの中核はごくシンプルなもので、ほとんどの部分は冗長な肉付けにすぎない。

ヴィジョンを投げかける装置としてもっとも適しているのは詩である。

あるいはとても短い短編小説もいいかもしれない。

ヴァレリーのカイエは多くの作家たちに引用されている。

それは、そこに書き残されたヴィジョンが、端的であり、その射程が広いからだろう。

なぜそうなるかといえば、ヴァレリーが世界を捉えるときに、端的で射程の広い見方で捉えていたからだと推測できる。

しかしそれは、エッセイへの評価でよくあるような、ものごとに対する変わった見方で書かれているだとか、誰もが言い表すことの難しい感覚をうまく表現しているとか、そういうことではないように思える。

書かれた内容が教訓的ではないということが、かなり重要な分岐点である。

これは音楽における歌詞においても同じことが言える。

優等生的な教訓めいた歌詞が流行の曲には多いが、それらはすべて全くくだらないものに過ぎない。

日常や人間関係のあるあるだったり、なにか世界に対する善い見方だったり、そうしたものを書くことにはほとんど何の価値もない。

共感したり感動したりすることを回避すること。

そのようではない何かを書くこと。

それこそ、書くことがむずかしく、しかし書きがいのあることである。あえて何かを書くのだから、それならば、そのように書きたいものだ。