【エッセイ】無名の作家が必ず思うこと

 文章を書いてSNSなどにアップしても(とくに知人から)なんの反応もない。逆に親しい人ほど完全に無視だ。お前の書くものなど読む価値もないという無言のメッセージ。

 彼らはそもそもプロの作家が書いたものさえ読まないのだから私の書いたものなどさらに読まないと言えなくもない。

 先ず誰も文章をあえて読まないというハードル。つぎに世の中には素人とプロがいて素人の文章などはじめから読む価値がないとするハードル。

 というわけで私が小説やエッセイを書いても誰も反応しない。感想もない。もしそれが文学部ならどうだろうか。少なくとも反応はあるだろう。あの頃は楽しかったな。


 それでは、読まれることで何をもたらしたいのか?そもそもギフトを与える気がなければ、読んでもらえないと愚痴をこぼすのもおかどちがいだろう?

 何かを書くこと。エッセイなら物事に対する視点がギフトだ。小説なら世界の見方を変えるビジョンがギフトだ。

つまり、ヴィジョンかヴューを与える文章を書く必要がある。イメージ、視界、視野。

 その視界が中毒性のあるものであればなおよい。読者が服用する毒や薬のような、麻薬のような文章。

 書いて読者に与えるものは麻薬であるべきだ。


 何か書かないではいられないテーマがあって、作家はそれを言葉によって抽出して、紙面に定着させる。

 頭の中でフワフワととらえようのない靄のかかった観念を、はっきりした言葉という具体的なモノに固定して、整理する。

 読者の方では、自分ではうまく定着させられない考えがそこにうまく整理されていることに感動する。

 「これはまさしく自分のことを書いている!」というあれである。


 作家は自分の存在証明のために、書き始める。何か自分の生きている証を広く訴えたいのだ。つまり、自分の考えを認められ、称賛されたいのである。

 そこで、読まれない小説は作家をひどくがっかりさせる。苦労して書き上げた小説は自分の存在を誰にも届けられなかった。

 やはり、自分は見捨てられている。自分の考えは打ち捨てられている。孤独に朽ち果てていく存在だと落胆し直すことになる。


 まるで愛の告白のようだ。誰にも届かなければ、その想いは空転する。そして、発した自分自身に虚しく反響してくる。帰ってくるそれをどうすることもできず、また作り直して、あらためて告白するしかない。