【小説】『雪解け』

 

 

 

 一


 ナオミが眠りから覚めてベッドのそばにある窓から外の景色を見るとそこには雪が降っていた。綺麗な埃のような、生命を宿した塵のような雪の結晶が、音もなく空から大地へと降り注いでいる。

 真っ白な点が無数に散らばってビルや道路の境界は淡く溶け合い、通りを走る車や歩く人々の音は、フィルターのかかったサンプリング音のように雪と窓によってナオミの視覚と聴覚から隔てられていた。


 二


 冬の冴えた空気が、窓枠のかすかな隙間から部屋の中へと入り込み、室内の暖房の暖かな空気とせめぎ合っている。冷たさと暖かさの混在する領域、新しい一日の始まりを静寂のうちに準備しているような、終わりなき世界戦争の果ての果てにある一つの空白の地点。

 私がいるのは、まさにそんな場所なのかもしれないと、眠い瞼の裏に映る光の残像とおぼろげな窓の外の雪景色を交互に映しながら、ナオミは思うのだった。


 三


 同棲していたボーイフレンドがナオミの部屋を出て行ってから世界の気温は少し低くなり、その影響で海の水は収縮し、底に沈んでいた大地がいたるところで露わになっていた。

 ベッドに横になったまま枕元にあったリモコンでTVのスイッチを入れると、イケメンのニュースキャスターが、捜査隊による失われたアトランティス大陸の発見の様子を実況中継していた。「これは驚くべきことです。私たちは歴史的な発見を目の当たりにしています」

 少し取り乱した様子のイケメンを見れて、今日はいい日になりそう、とナオミは思った。


 四


 外に雪が積もっているせいか玄関のドアは開かなかった。といっても家の外に出られないからといって何も困ることはなかった。

 彼が家を出て行ってからすぐにナオミは正規雇用の保険のセールスアドバイザーの仕事を辞めた。駅前のデパートの一角にある生活雑貨売り場でパートの販売員として生活に必要な分だけ労働し、ふつうに暮らす分には何も困らなかった。

 このまま部屋から出られず、パートをクビになってもまた新しいパートを見つけるのは何も難しくない。単純作業も好きだったし、仕事に生きがいを見出すタイプでもないので、職種にたいするこだわりもとくになかった。


 五


 とりあえず家の外に出るのはあきらめて、リビングルームに戻り再びテレビをつける。べつに見たい番組があるわけでもなく、家にいるときはとにかくBGMのようにテレビをつけておくのが習慣になっていた。

 テレビで人がしゃべっている音を聞いていれば、孤独感に向き合う必要もなく過ごせるというのがその理由だったかもしれないが、かといってテレビを消して読書をしたりして静かに過ごすのも、それはそれで嫌いではなかった。


 六


 テレビではあいかわらずアトランティスの特集番組が続いていた。うさんくさい学者がそもそもアトランティスとは何か説明している。

 「アトランティスとは哲学者プラトンが書き残した伝説の国家で、長い間多くの人々の好奇心を集めてきました。それが今まさに目の前に現れている!これはほとんど奇跡のような出来事です!」

 いい年したおじさんがまるで子供のようにテンションが上がっていて、はたから見て少し滑稽だとナオミは思った。

 

 七


 ナオミはアトランティスというものをよく知らないし正直興味もなかった。彼女にとってはボーイフレンドが忽然と姿を消したことだけが重大な事件なのだ。

 いつもそばにいてくれた存在が突然跡形もなく消えてしまうこと。これほどの喪失感と悲しみがほかにあるだろうか。

 たとえ核戦争が起きて全世界が壊滅しても、彼を失った私のこの悲しみより深い悲しみはないと、ナオミは強く感じながら、ぼんやりとテレビを眺めていた。


 八


 生放送の中継画面を見ていると、そのアトランティスと呼ばれる城塞国家の周囲を囲む黒い壁から何か不思議な円錐状の突起が360度等間隔に出てきて、一斉にオレンジ色の強い光を放つ光線を放った。

 その凄まじい光線の音と人々の叫び声とともにテレビの中継はブツッと途切れて、不適切な映像が映されましたという画面に変わったまま動かなくなった。

 何か確実に恐ろしいことが起きているに違いない。そう思いながらナオミは二杯目のコーヒーを淹れるために椅子から立ちキッチンへと向かった。

 

 九

 

 ヨーロッパは復活したアトランティスの攻撃によって完全に壊滅し、地中海から北側の大陸からイギリス、北欧まで含めた地域の全ての人間が死滅した。

 西欧の精神は物理的な破壊によって、ほとんど一瞬で消え去った。

 

 十

 

 ケイは西欧の精神とはいったい何だったのかと考えた。自分がただボタンを一回押しただけで消え去ったそれはこれまでは世界のほとんどすべてを思うがままにしてきた。世界の富を簒奪し、知性と権威を正当に主張してきた。

 いまではそのすべてが完全な荒野と化したヨーロッパの映像を眺めながら、ケイはコーヒーを飲んでいた。

 

 十一

 

 ケイはコーヒーが好きだった。以前彼女がコーヒーはちゃんと豆から淹れるのがいいよとおすすめしてくれてから、ほとんどかならず毎日欠かさず飲んでいた。

 丁寧にコーヒーを抽出することよりも、ボタンひとつ押すだけでヨーロッパを破壊することは、はるかに簡単だった。

 

 十二

 

 これで、ようやく世界の長い冬は終わるだろう。

 遠く離れていた彼女ともまた会える。

 ケイはアトランティスに乗って日本へと向かった。