【小説】『ストレンジ・ゲート』

 

 

 

 一


 二〇代の輝かしいビジネス的成功を瞬く間に喪失して家も妻も失ったサイモン・ベネットは郊外の実家に戻り、初老になる父が店じまいをする予定だった地下鉄の駅近くにある小さなグロサリーの跡を継いだ。‬
‪ 日々のつつましやかな生活をぎりぎり継続させる程度の稼ぎしかなかったが、サイモンはとくに商売を改善することもせず、客が来ない時間帯はカウンター下に置いてある酒を飲みながらテレビを見て過ごした。

 

 二


 「…テレビを見ても世の中のことは何もわからない。テレビにはグロサリーで酒を飲みながらカウンターに座っている男のリアルなど映し出されることはない…ようするにメディアに映し出されるヴィジョンというものはすべて、世の中の出来事の中でもわかりやすく極端な事例だけなのだ。それは事例というよりももはや特例とか例外といったほうが正しい…リアルというものはテレビや新聞それにインターネットなどといったメディアになんかではなく、無名の男が酒を飲みながら店番をしている郊外の小さな町のグロサリーのカウンターにあるのだ…」

 

 三


 そんなことを思いながらサイモンが酒をやっていると、来店のチャイムとともに一人の男が入ってきた。

 しつらえられた黒いスーツにコートを羽織り黒い山高帽を深く被ったその男は、棚から瓶ビールを一本手に取ると、すべる影のように静かにカウンターのところまで近づいてきた。
 「あなただけに教えますが」サイモンがいつも通りレジ会計をすませると男は内臓に響くような低い声で話しかけてきた。「異界の門が開かれる時が来ました。それは今日です」。

 

 四


 男が去った後サイモンは男の言ったことを深く考えるでもなく、またなんとなくテレビを見ながら店番をした。

 世界的に有名なテニスプレーヤーのロベルト・フィデリオが韓国の新人テニスプレーヤーのチャン・ヒヨンと買い物をするバラエティ番組が放映されている。一見仲よさそうにコミュニケーションをしているように見えるが、細かいやりとりを見ているとフィデリオはアジア人、そしてランクの低いテニスプレーヤーを馬鹿にしているように見える。

 

 五


 世間的に有名な人物、ある組織で目立った功績をなす人物、そういう非の打ち所がない人物にもひとつだけ欠点がある。

 それは、彼が成し遂げたことの偉大さによる自信や、いつ名声が失われるかもしれないという不安から急かされる、隠された傲慢さがあるということだ。
 権力や権威というのは運に左右されたその時の流れの中にあるもので、必ずしもその人物の能力や努力によってそうあるものではないことはまずまぎれもない事実である。


 六


 そしてそのことはサイモン自身、みずからの経験でよくわかっていた。サイモンはかつて多忙な日々の中、重要な取引先との比較的安価な仕事における請求に関する些細なやり取りの場面で、その隠された傲慢さが表に現れることによって次から次へと取引を失い、こうしていま1日に数人しか客の来ないグロサリーで昼間から酒を飲みテレビを見ながらひとり店番をすることになったのである。

 俺には盛者必衰という日本のことわざがよく似合う、とサイモンは心の中で独り言を言った。


 七


 フィデリオがナイキのスニーカーショップでお気に入りのスニーカーを物色しはじめたので、またこのくだりかと思いサイモンがテレビ画面を消してレジ前のカウンターに目を落とすと、そこには一通の封筒が置かれていた。

 これはさっきの男が置いていったものかなと思い不審がりながらもペーパーナイフで封を開けて中の手紙を開いてみると、そこには血のように赤いインクで、決して整った美しい字でも達筆でもなく、ゆっくりと書かれたであろう丁寧な丸っこい字でこう書かれていた。


 八


 To サイモン・ベネット


 異界の門〜

 

 あなたにはその資格がある。

 あなたが再び人生の栄光を取り戻したいのならそれはいとも簡単に手に入る。

 もしその気があるのなら、下記の番号に明日までにお電話を!


 ○○○-○○○○-○○○○


 from あなたの背後世界の番人ジョン・アッシュグレー


 九


 新手のビジネスの売り込みかよ、と独り言で手紙にツッコミを入れざるを得なかったが、サイモンはなぜか明らかに怪しいその手紙の勧誘に心惹かれている自分がいることに気づき、テレビが消えてなんの音もしないレジカウンターに一人で座ったまま深妙な沈黙の五分間を過ごすことになった。

 そうして手紙と向き合ったまま押し黙っている世界に全く一人きりの自分をふと俯瞰で見て、行き場のない虚しさでいまにも暴れ出したくなってきたので、安い赤ワインをぐいっと飲み干すと、そのままサイモンは深い眠りについてしまった。


 十


 目を覚ましたとき外はすでに暗くなっており、店を閉める時間はとうに過ぎていた。だが店の中にはサイモンの他にもう一人の男がいた。そいつはカウンターに酒の瓶を両手で二本どんと置くとこう言った。

 「飲むぞ!」

 その男は不審者でも浮浪者でもなく、サイモンのハイスクール時代からの友人モハメド・ラヒヤーニであった。モハメドはテニスの審判を仕事としており、地方の小さな大会のジャッジを専門としていたが、その陽気な性格と公正な判断を評価され来月からインサイド・ステップの町を出てヨーロッパの大きな大会の審判として赴任することになっていた。


 十一


 モハメドとプロテニスプレーヤーの動画をネットで見ながら酒を飲んでいるあいだ、サイモンはずっと心ここにあらずでとりとめのない考え事をしていた。

 「友達というものは突然いなくなる。妻も子供ももういない。誰も責めることはできないが、結局はみんな一人きりでこの世界に立っているしかないのだ。とくにこの俺はそうだ。一度はビジネスで成功し美しい妻にもかわいい子にも恵まれ、丘の上に建てられたプール付きのちょうどいい家のテラスで太陽の暖かな日差しを浴びていた俺はもういない。結局はそうなんだ。この世は偶然によって決められていて、長いあいだ運というものは俺の方を向いていない。これからもこの流れは続くだろう…」


 十二


 来月からの新しいステージでの活躍の展望を嬉々として語るモハメドの輝く目と真っ白な歯を見る時間が終わり、モハメドが自らの未来の明るさを十分話しきった満足感とともに帰っていくと、サイモンの部屋には心ここにあらずなサイモンと安ワインの空き瓶が数本、それからカーペットの上に散らばるしけたナッツが残された。

 モハメドは未来へと向かって進んでいる(プロテニスのチェアアンパイアは年収2500万くらいある!)のに対し、今のサイモンに未来はなく、かといって過去に戻ることもできず、自宅兼グロサリーという建物の店の奥にある酒の空き瓶とつまみが散らかる部屋にあるボロボロのソファという現在に座っていた。

 

 十三


 ソファはまるで岩のような座り心地だった。こいつはソファなのか?それともかろうじてソファの形を保っているだけのもはや別の何かなのか?サイモンはそんなことを考えた。まるで自分がその岩みたいなソファの一部に同化してしまったかのように感じ、思考停止したまま安ワインの瓶をもう一本空けた。

 サイモンはこれ以上何も考えたくなかった。考えても何も変わらない。ただ虚しくなるだけだ。それよりは何も考えず酒を飲んで訳が分からなくなっている方がずっとマシだ。あらゆるものが変転し続けるこの世界の中で、酒だけはどんな時も不変の真理なのだ。


 十四


 ウィンブルドン選手権で優勝した時のフィデリオの試合が動画で流れている。フィデリオのバックハンドストロークはほかのプレーヤーと全く違っていた。コートを滑るようにいつのまにかボールの着地点に移動し、白鳥のように優雅に両手を広げるその一連の動きは、もはや芸術の域に達していた。

 フィデリオが優勝インタビューで素晴らしいコメントをしているかたわら、サイモンは謎の男ジョン・アッシュグレーからの手紙を開き、そこに書かれている番号に電話をかけた。


 十五


 「お客様のかけられている番号は現在使われていないか、あるいは電波の届かないところに…」

 無機質な女性の録音された声がおきまりの定型文をそこまで読み上げたところでサイモンは通話を切った。

 手紙を床に放り投げ、携帯電話をローテーブルの上に放り投げると、サイモンは肘をついてしばらくうなだれ、また新しい安ワインの瓶の蓋を空けた。「今日はもうこのまま飲んで寝てしまおう、明日は一日店じまいだ。ちくしょうめ」。誰に対してというわけでもなく虚空に向かってそう言い放つと、サイモンはそのまま倒れるように眠りに落ちた。