【小説】『不可逆性 ある男の手記』

 

 

 

198X年5月○日 曇り

日々は何事もなく過ぎていった。仕事は紆余曲折がありながらも比較的安定した軌道に乗り、老後の心配もない。子供は独立して家を出た。子供が出て行くときに子供の代わりとして妻が買った犬を散歩させているのが今の私だ。河川敷に座り犬を放す。そのままどこかへ行ってしまえばいい。川は静かに右から左へと流れて行く。

対岸を若い男女が通り過ぎて行く。私にもそんな頃があっただろうか。金で家や犬は買えても若さは買うことができない。私はやがて死ぬ。何事もない日々が何事もない雑事を引き連れて。夕日が沈んでいく方を眺めると、暗く深いオレンジ色がくすんだ街並みの向こうに溶けるように沈んでいくのが見える。

私の生もそのようなものだ。朝に昇り、夕に沈んでいく太陽。そして夕に沈んでしまえばもう二度と朝に昇ることはない太陽。これが人生だったのだろうか。可能性の死は存在の死だ。無数にあるように見えた可能性の経路が歳を重ねる度にひとつひとつ喪失され、やがてひとつだけしか残らなくなる。後悔してももはや遅く、死はあと少ししかない一本道の向こうで私を待っている。

いつもと同じ連中と、いつもと同じ道を歩く。妻もいまでは晩年にさしかかっている。かつては美しかっただろうか。いまではよくわからない。家で待つ妻や子供を想起しても何も期待することはない。

こんなもののために生きてきたのだろうか。努力して得た地位も金もせいぜい変わりばえのしない初老の友人たちとゴルフに行くことくらいにしか役に立たない。

可能性がまだ残されていた30代の頃に、もっとできることがあったはずだ。なぜ身をもち崩すことも、我を忘れて取り乱すこともなくやり過ごしてきてしまったのか。

浮気の一つもせず、仕事帰りは同僚と飲むか学生の頃の友人と飲むかしかしていなかった。いまだにそんなことしかしていない。

政治の愚痴や経済の論議、哲学的論争など結局ひとときの気晴らしでしかない。本質は空虚だ。

 

198X年5月○日 晴れ

駅のホームには若いカップルが歩いている。明らかに自分が若い頃の方がいい男であった。もしいまその若さなら、どんな女だって自分の虜にすることはできるはずだ。だが電車の窓に映るのは、つまらないいつもの家族が待つ家に帰る初老の男でしかない。

子供を育てることにはなんの喜びも感じなかった。ましてや犬の世話など苦痛でしかなかった。年を取るたびにテレビを見ることしかしなくなった妻を思うと、この人と生きてきた数十年が全くの無駄な時間であったとさえ思える。

子供の写真を携帯電話の待ち受けにできる同僚の感性がよく分からない。ましてやSNSに子供の写真を投稿する連中はなんなのだろうか。自らの緩やかな死の始まりをなぜ喜ぶことができるのだろうか。

女たちのあの美しい姿に比べたら、子供など醜悪な虫と変わらない。女たちのあの美しさは私にとっては永遠であり、そこから去ることのできない生の完璧な条件なのだ。それなしでは生きている意味など何もない。全く何もない。

旧友たちは明らかに同じことを繰り返すようになった。いつも同じ話しかしない。かれらには人生に期待するものがもはや何もないのかもしれない。同じようなものを食べ、同じような場所で遊ぶ

 

(手記はここまでで途切れている)