【小説】『湖』

 

 

 

 

 

湖までの距離はあと1kmくらいか。朝5時に山小屋を出てから50分ほど歩いてきた。特に目的もなく湖に行くと決めたのはひどい咳で深夜3時に目が覚めてしまったからだ。とにかく何か新しい静謐な感覚が必要だと感じられた。過去を大きく見積っていたのだと思った。欠乏は錯覚だと。新しい一日、新しい瞬間がそのたびに新しいスタートだと思う必要があった。足りないものを補充するための行為ではなく、新しいものを追加するための行為だと。深い熟慮によって、強い意志によって選択し決断したことが人生を築いて行くのではない。肝心なのは気軽な判断、ほとんど条件反射のような小さなアクションこそが人生を創造し、つねに創造し直して行く。そのための湖だ。そのための散歩だ。目的地までの正確な距離や正確な所要時間なんて計算する必要はない。そんなことを考えている時間があったら、一歩でも足を前に進めたほうがはるかに効率がいい。だから歩いている。湖へと向かって。