【短編小説】『侵食』第1話

 三十三歳の夏に十年以上務めてきた工場をリストラされてから、彼の人生は変わった。四年前に見合結婚した妻は家を出て行き、幼い娘の親権は妻に譲ることになった。
 彼には親しく話す友人といったものはなく、会社の同僚たちとはたまの帰りに酒を肴に仕事の愚痴を話す程度の仲でしかなかった。両親は数年前にすでに亡くなっており、彼はまごうことなき孤独といった状況に突然陥ったのである。

 


 しかし考えてみれば彼はもともと孤独でしかなかったのかも知れない。大学を出て何もせずに実家に寄生している息子を見かねた父から紹介された工場でたまたま働くことになり、毎日工場と自宅を行き来するだけの独身男を見かねた母から紹介された妻とたまたま結婚し子供が生まれただけだと言われれば、彼には何も否定する言葉もなかった。

 

 彼は生まれてから今まで、何事をも自分の意志でこれと決断して行動した事はなかった。働いたら負けだとも思わなかったが、かといってあえて働きたいとも思わない、結婚は人生の墓場だとまでは思わないが、あえて結婚したいとも思わない。こちら側とあちら側の中間に、薄暗い倉庫のような場所で、汚れた袋に入れられて天井からぶら下げられているような状態にあることに、かえって自由を感じるような、彼はそんな人間であった。
 

 いつも通りなんの手応えも得られなかったハローワークでの面談の帰り道にふと立ち寄った東池袋中央公園で彼は友達と楽しそうにはしゃぐ若い女たちを見た。見たところ二十代半ばくらいの大学生だろうか、人生の暗い側面など何も知らないしこれからも知る余地もないかのような、そんな華やかな女たちであった。

 


 そんな女たちを虚ろな目でぼんやりと眺めていた時、彼の脳裏に一筋の光明のような、脳髄を激しく揺さぶる振動のようなものが閃きぐつぐつと沸き起こった。
 それは、華やかなものを汚したい、綺麗に整ったものを破壊したい、という強い衝動であった。こんな感覚は生まれてから今まで一度も感じたことがない。彼は、生まれて初めて自分の意思でこれと決断して成し遂げたいことに出会った。

 


 夏の強い日差しが公園の縁に沿って立ち並ぶ木々の隙間から地面に刺している。昼下がりに公園のベンチに座り缶コーヒーを飲んでいる一人の男の薄暗く沈鬱な欲望を想起することなど思いもよらないような、清々しい夏の光に包まれて、女たちの表情はきらきらと輝き、白いブラウスやネイビーの薄いカーディガンが、物事を単純化して悦に浸るマティスのダンスのように躍動していた。

 

 私が彼に出会ったのはある夏の日の夜のことだった。仕事帰りにたまたま立ち寄ったバーのカウンターで隣に座っていた男が彼だった。
 彼はラコステの緑のポロシャツに白いデニムを履き、よく磨かれた茶色の革靴を履いていた。テイスティンググラスを片手に、優美な手つきでメンソールのタバコを薫せていた。
 私がボウモアのストレートを注文して一口飲んだ時、彼は穏やかだが気さくな感じのする声で話しかけてきた。

 


 「いいですね。ボウモアは僕も好きなお酒です。後を引く燻った香り。口の中に仄かな違和を残す」
 私が、「そうですね、まさしくそういう感じが好きで、飲んでいるんです」と言うと、彼は話を続けた。
 「僕は北沢ミサキといいます。あなたも私の名前を女みたいな名前だと思いますか。みんなそう言います。まあ当たらずも遠からずです。私の存在はほとんど女でできているようなものですから」

 


 私は、この人は不思議なことを言う人だな、面白い、と思い、見知らぬ隣人との会話に乗ることにした。
 「存在が女でできている、とは、どういうことですか。いわゆる女たらしと言えば失礼かもしれませんが、要するにそういう意味ですかね」
 彼はグラスに入ったピスタチオを一つ摘み、その殻を剥きながら、洒脱にふふふと鼻で笑い、言った。

 「私が女たらしとは、愉快なことを言う。女をたらすことができれば最高でしょうね。私の場合は、どちらかといえば、女にたらされている方ですよ」

 


 私は彼のように質問をずらしながら会話を進めるスタイルが好きだったので、さらに興味深いと感じながら言った。

 「いや、うまく女にたらされることができるのも一つの女のたらし方じゃないですか。顔もかっこいいし、服装もクールだし、女性には不自由していなそうに見えますよ」
 社交辞令と素直な感想をブレンドした私の言葉に気を良くしたのか、彼は口角をにやりと上げて、言った。
 「たしかに。女には不自由はしていません。より正確には、女の肉体には、ということですが」

 

十一

 屠畜場では豚や牛がたんなる肉塊となって天井からぶら下げられている。空気には生臭い血の匂いと、冷たい鉄の匂いが混ざっている。白い作業着の労働者達が、淡々と業務をこなしている。業務中の何気ない会話で「おまえの弁当に豚の臓器混入するぞ、わはは」などと冗談を言い合う者もいる。

 

十二
 その男は新聞記者を装い屠畜場の見学に来ていた。コンベアで運ばれる肉片や、切断された肉の断面、喫煙所で休憩する作業員の様子などを、写真に撮ったり、簡単なスケッチをしたりしていた。
 「思っていたほど、面白くはないものだな」と、男は考えていた。ここにはドラマがない。感情の昂りもない。自分が働いていた工場では自動車の部品を加工していたが、ここではそれが豚や牛の肉であるだけで、大きな違いはない。人間は自動車に乗る。人間は動物の肉を食べる。それらが人間の手元に届く社会的な生産過程が、ここにはあるというだけだ。これは純然たる業務でしかない。

 

十三
 「屠殺は、前頭部への打撃、あるいは電撃や二酸化炭素によって昏倒させたあと、大動脈を切開し放血殺する方法で行われます。昏倒させてから放血殺する方法が採用されるのは、安楽殺という動物福祉への配慮もありますが、それより、速やかに死に至らしめられなかった場合に、ストレスによる筋変性や放血不良によって肉質が悪くなったり、恐怖した家畜が暴れて自ら筋肉や骨を損傷したりすることを避けて、食肉の商品価値を損なわないようにするためという合理的な理由の方が重要です」

 

十四
 男は、取材を許可してくれた管理者から屠殺についての簡単な説明を受けると、丁寧に礼を言い、屠畜場を後にした。
 

十五

 彼は言った。「私は妻を持っていません。特定の彼女も持っていません。その代わり私は不特定多数の女の肉体を持っています。名も知らず、素性も性格も何も知らない無数の女の肉体です」
 彼は繊細な指先で糸人形を操るようにピスタチオの殻を器に落とすと、また一つゆっくりと口に含んだ。

 

十六
 「女の肉体を持っている、というのは具体的にはどういうことなんですか?」私は聞いた。
 「その言葉どおりですよ。女の肉体を持っている、というのは、文字通り女の肉体を所有している、ということです」そう言って彼はグラスの底に薄く残っていたウイスキーを飲み干した。

 

十七
 「今日はこのへんでやめておきましょう。どうやらあなたは誤解しているようだ。澄み切った春の湖のような気持ちの時に、また二人で飲みましょう」
 線が細く背の高い身体を街灯の光に照らされた影のように揺らしながら後ろ向きに手を振り彼は渋谷の雑踏の闇に紛れ込んで消えていった。