陰影 五


        五

朧げな眠りから重い瞼を上げると、いつの間にか深い霧は薄く四方へ拡散し、底に沈んでいた意識が水面に浮上して来るのを感じる。覚束ない体を少しづつ起こし、周囲を見回してみると、さっきまで乗っていた自転車が何処にも見当たらない。たしかに河川敷であったはずの所には、舗装された小道も、生い茂った草も、建ち並ぶ家屋の群れも、流れていた河さえ無く、その代わりに、淡く暗いピンク色の泥の様なものが、鈍く波打ちながら辺り一面に広がっていた。

前後左右を見渡す限り、一つの人影も見当たらず、ピンク色の土の様な地面の空中には、ゆらゆらと漂う薄紫色の靄があるばかりで、此処が一体何処なのか皆目見当も付かない。余りの異様な光景に為すすべも無く暫く茫然と立ち尽くしていると、前方遥か遠くから何やら人間の声らしきものが微かに聴こえてくることに気付いた。

「ゔぉぉ、ぉぉ、ぉぉぉぉ」

「しゅふぅぅ、ぶぉぅぅぅ」

そんな声だ。いや、声なのかどうかよく分からない。獣の呻き声と言った方が近い気もするが、それでもやはり人間の声としか言えない。獣と人間の二重音声のような、獣と人間がお互いの領域を侵しあっているようなそんな声が、霧に覆われて見えない前方遠くから、鈍くしかし確実に反響してくる。

頭の中では後ろを向いて逃げ出したい気持ちに駆られているのに、身体は無意識のうちに自ずとその声のする方へと向かって、前へと歩き出した。薄紫色の靄を両手でかき分けて、一歩一歩、その声のする方へ、近づいて行く。