現実に水を差すための文学

少なくとも文章をものするには兎に角書かなくっちゃあならない。そういうわけでなにやら書き始めるわけだがいっこうに自分でもピンとくる文字列が出てくる気配もない。小説家たるものは登場人物が他の登場人物と出会って関係を持って、いろいろと考えたというていで世の中にたいする自分の考えや意見をつらつらと述べ立てるものだが、なんだかそれがわざとらしく感じられるのも御免である。

三島由紀夫など読んでみるも、たとえば男の裸が美しいだのなんだのと、心の裡の欲望をぶちまけたみたいな気持ち悪さというのか、そういうのがあるばかりで、ピンとくる文字列は見当たらない。太宰治なども会話文の軽快さが魅了のように見えるが、会話の内容の趣味嗜好にうなづけることはなく、遠いところでなにやら人が人と会話しているな、といったことしか思わない。これでは困ると村上春樹の短編小説の頁をめくってみると、なにやらTVピープルなるものが現れ語り手の日常に違和感を物体的に残している描写が繰り広げられている。まっとうに行けばここに落ち着くのだと得心する気にもなれど、それこそが時代の闇なのだと思い直す。どうやらそれより自分は夏目漱石の小説のように、主人公が饅頭についてどうでもいい感想を展開する様な文字列が好きなのかもしれないとも思うのだった。

文章を書こうと思い至ったのはほかでもない、昨今の何でも蚊でも効率化、合理化思考、テクノロジー化一辺倒な社会の流行、暗さも弱さもなく、あるのは露悪的な小児的欲望の泣き喚きの類の小説や映画の群れに辟易しての事である。だから、文章は暗くなくっちゃあならない。絶対に。弱くなければならない。徹底的に。暗さと弱さこそが、どうやら自分にとっては文章というものが表現し、現実に水を差す役割を遂行せねばならないと思うテーマのようである。