Fleur Aux Questions

よくあるご質問

旅──楽しさを装った絶望者と絶望者を装った楽しさ

 

楽しさを感じないのは、文章の細部をよく見ず、要約や主張のみを意識して読んでたからなのではないかと思った。

 

いままで読んだ本を再読して、なんとなく理解していたものを要約して自分の道具にしようと思うようになってから、その傾向は強くなっていた。

 

すぐに気づくことだが、どんな文章も、要約してしまえば、どれも同じような、どこかで見たようなことを述べているにすぎないように見えるものだ。

 

では、文章の細部とはいったいなんのためにあるのか?誰がなんのために書いているのか?…ナボコフは新しい世界を構築するためだと言っているが、おおむねそれに同意する。

 

文学は、私たちがすでに知っている世界や、一般的な観念を再認識したり整理したりするために書かれるのではなく、反対に私たちがいまだ知らない世界や、特殊な観念を新しく認識するために書かれるということ。

 

そう考えれば、文章の楽しさというものは、また違った表情を見せはじめる。私が陥っていた楽しさを感じない状態は、おそらく、すでに知っている世界や、一般的な観念しか書かない本の類(思想書や科学書、ビジネス書など)ばかりを読んでいたことが原因だった。

 

「はいはい、それね」とか、「ああ、まあ、なるほどね」とか、そういう、いわゆる再認識のバリエーションがいくつかあるだけの本は多い。書店に行けば棚のほとんどがそういう本で占められている。

 

私たちがいまだ知らない新しい世界や、特殊な観念に出会うことができる楽しい本を見つけること。ネットの検索からでも、書店の棚からでも、その羅針盤は、探索者や冒険家の手に委ねられている。

 

そう考え直したら、文章の楽しさになかば諦念を持っていた気分がすっと晴れたような気がした。楽しさを装った絶望者の群れの中から、絶望者を装った楽しさを探し出す。旅に出よう。