読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Fleur Aux Questions

よくあるご質問

ジル・ドゥルーズ『ジル・ドゥルーズのアベセデール』N(神経科学)

哲学

 

 

…そのことについてはこう考えることにしている。私は確信するのだが、同じものにも多様な読み方がありうる。もちろん「哲学」からしてそうだ。 哲学書を読むのに哲学者である必要はない。哲学書は二通りの仕方で読むことが可能だ。いや必要だ。非哲学的に読むことが絶対に必要なんだ。さもなければ哲学に「美」はない。専門家でない読者が哲学書を読むことは…哲学書の非哲学的読解は何も欠けるものがない。それだけで完結している。一つの読みとしてね。

とはいえ哲学にもよる。例えばカント哲学を非哲学的に読むのは難しい。スピノザなら大丈夫だ。農民がスピノザを読むことは十分あり得る。商売人も読むだろう。ニーチェももちろんそうだ。私が好きな哲学者はみな同様だ。

思うに「理解」する必要はない。「理解」は読むことの一側面でしかない。君が私に言ったことみたいだが、ゴーギャンらの偉大な絵を評価するためには絵画に精通していなければならない。よく知っていた方が良い。

だが無知である場合ーー極めて真摯な感情を、極めて純粋で暴力的な感情を観る者は抱くものだ。何の知識も持たずに絵から雷の一撃を受けることはもちろんある。一切何も知らぬままにだ。音楽に激しく感動することもある。何を喋っているか分からない歌曲にもだ。

例えば「ルル」を聴くと激しく感動する。あるいは「ヴォツェック」。「ある天使の思い出に」などと言ったらもう最上の感動だ。

そう、もちろん見識があればその方がいい。しかし、精神の領域においてこの世の重要なものはすべて二重の読み方ができる。ただし、独学者として好き勝手に読むのではなく、別の場で立てられた問題から出発して読むならばだ。

私は哲学者として音楽の非音楽的知覚を持つ。それが多分私にとって非常に感動的なことだ。同様に、音楽家としてまたは画家や他の何者かとして哲学を非哲学的に読むことができる。この二つの読み方が同時にできなければ、両翼のない鳥が飛べないようにうまくいかない。哲学者もまた学ばなければならない。偉大な哲学を非哲学的に読むことをだ。

典型的な例はやはりスピノザだ。スピノザの文庫を持ち歩いて読むと、偉大な歌曲を聴く時の感動を与えてくれる。そこで問われているのは理解ではない。私が講義をする時も明らかに理解している者としていない者とがいる。万事同じで本も理解できたりしなかったりする。

科学を理解しているかという質問に戻ろう。確かにその通り。ある意味そこで自分の無知の先端に置かれる。そこに留まらねばならない。自分の知の先端、同じことだが自分の無知の先端にね。そこで初めて何事かが言える。私は何を書くかを前もって知っていない。文字通り、何を話すかは話してみて分かる。関心が持てないということもあとから分かる。もし試しもせず知らないことについて知った顔をするなら、違う意味で関心がないということだ。問題にしたいのは知と無知の境界だ。そこに身を置くことで何事かが言える。

私にとっての「科学」も同じだ。学者たちとはいつも上々の関係を持つことができた。彼らから見れば私は学者ではないが「うまくいっている」と言ってくれる。そう言ってくれるのは少数だがね。私がとても気になるのは「共鳴」とでも言うべきものだ。

一つ例を挙げよう。とても単純な例だ。私が大好きな画家のドローネーがいる。ドローネーとは何か?どのような定式で言えるだろう?ドローネーがしたのは何か?彼は驚くべきことに気付いた。元に戻るがアイデアを持つとは何かということだ。ドローネーのアイデアは何か?それは、光が自身の形象を形成するということだ。光の様々な形象がある。以前からあったかもしれないがこのアイデアはとても新しい。ドローネーに見られるのは形象の創造、光が形成する形象の創造だ。彼は光の形象で描く。他の画家とまるで違うのは、光がオブジェと出会う時に取る様相だ。これによって彼はオブジェから離れオブジェなしの絵を描く。彼はとても美しいことを言った。キュビストたちを厳しく批判した時、彼は言った。「セザンヌはオブジェを壊すことに成功した。高杯を壊した。キュビストはそれを貼り合わせるのにかまける」と。つまり、重要なのはオブジェの抹消であり、堅固で幾何学的な形象の代わりに純粋な光の形象を描くことだ。これも一つの事例だ。ドローネーという絵画的出来事だ。歴史的日付は大事ではない。ここには「相対性」という側面がある。相対性理論における相対性という側面だ。この理論について多くを知っている必要はない。独学は危険だが多くを知る必要もない。私はただ相対性のある側面を知っているだけだ。つまり、幾何学的な線に従属させるのではなく、そうではなく、光線はその軌跡に…光線は幾何学的な線に従属しない。「マイケルソンの実験」がもたらした転倒だ。今や光線が幾何学的な線を基礎付ける。科学的な見地における一大変動だ。すべてが変わることになった。光線は今や恒常的な幾何学的線ではない。これは「マイケルソンの実験」が示した相対性の一側面でしかない。ドローネーが相対性理論を用いたということではない。

私は出会いを祝いたいんだ。つまり、絵画的試みと科学的試みの出会いだ。両者は無関係ではない。これと同じもう一つの例を挙げよう。リーマン空間には私の理解を超えるところもある。私が知っているのは、断片からその都度作られる空間ということだ。断片同士の接続は前もって決定されない。さて、これとは別の理由で、私は接続によって形成される空間の概念を求めている。決定されていない空間の概念。それが欲しかった。リーマンを理解するため5年をかけようとは思わない。5年経ったとしても私の哲学的概念の創造は進まないだろうからだ。

それから私は映画に行き、奇妙な空間を見た。有名なブレッソンの映画の空間だ。この空間は総体的ではない。その都度、断片から構築される。観客には独房など空間の断片しか見えない。「抵抗」の独房は決してその全体が映されなかったはずだ。「スリ」のリヨン駅の場面もすばらしい。ここでも様々な断片的空間が接続する。接続は前もって決定されない。どうしてか?手探りでなされるからだ。重要なブレッソンにおける「手」だ。つまり手が「スリ」において実際に素早く行き交い盗品をかすめ取る。それにつれて小空間同士の接続を決定する。ブレッソンリーマン空間を用いているのではない。

そう…出会いがあるということだ。哲学的概念と科学的な概念と感性的な知覚素とのね。そういうことだ。私が科学において知っているのはちょうど出会いを評価できる程度のことだ。それを超えると哲学ではなく科学をすることになってしまう。極論すれば私は知らないことについて述べる。知っていることの関連においてだ。機転が必要な事柄だ。度を超したり知ったかぶりをしてはいけない。

繰り返すが私は画家たちと出会った。人生で最も嬉しいことだ。だが直接会うということではない。自分が書くことの中で画家と出会うんだ。最大の出会いはシモン・アンタイとだ。アンタイは私に言った。「いいね、面白い」と。お世辞じゃない。お世辞を言うような人物ではないし知り合いでもない。出会いで何かが起きる。カルメロ・ベーネとも出会った。私は演劇の経験もないし知識もない。ここでも何かが起きたと考えざるをえない。それから科学者たちとも出会い、うまくいった。また私の本を読んだ数学者たちがこう言ってくれた。「これでオーケーです」とね。

まずい言い方だったかな。まるで嫌な自己満足みたいになったが、質問に答えようとこう言ったまでだ。私が科学についてよく知っているのか。知識を多く得ることができるのか、という質問だった。

重要なのは自己満足ではなく共鳴を起こすことだ。概念と知覚素と機能・関数(ファンクション)の共鳴現象だ。科学というものは概念ではなく機能・関数(ファンクション)でなされるのだから。だからリーマン空間が必要なのだしそのための十分な知識はある。 

 

クレール・パルネの意地悪な質問にたいするドゥルーズの答えは明晰でじつに鋭い。「科学的知識を詳しく知ることなんてあなたにはできないですよね?」と問われて、「その必要はない。自分の問題の役に立てるために専門外の知識を活用すればよい」と答える。こうしたやりとりを見ていると、自身では話すことはけがらわしいと言うドゥルーズの対話力の強さを感じずにはいられない。相手の力を利用してそれを相手に返す合気道の達人のようである。インタビューでさえこうなのだから、ドゥルーズの授業はさぞ面白くて仕方なかったにちがいない。