Fleur Aux Questions

よくあるご質問

いまここにしか存在できないことについて

 

 

キルケゴールの「あれか/これか」という実存的選択の不可避性(=実存的選択の強制)。ドゥルーズ的な「宙吊り」また、それを発展させた千葉雅也の「中間痴態」の態度は現実の場において必ず崩れ去る。現実の場においては「未決定性」も「並行的選択」もまったく不可能である。(「…私は今日はこれを、明日はあれをし、朝は狩をし、午後は漁をし、夕方には家畜を追い、そして食後には批判をするーー猟師、漁夫、牧人あるいは批判家になることなく、私の好きなようにそうすることができるようになるのである」マルクスドイツ・イデオロギー』p67)共産主義マルクスの理想としたような、朝は猟師、昼は漁夫、夕方には牧人といった行為の流動性を実現するのとまったく反対の、職業の固定化、階級の固定化でしかなく、そのため完全に失敗した。器官なき身体など不可能であり、動かずに旅をするノマド的生の肯定は、諦めと引きこもりの自己憐憫にしかなりえない。いまここにいることをどう解釈しても認識しても、また主張してもかまわないが、だからといって現実は何も変わらない。したがって小説がどれだけ別の生の疑似体験をもたらしたところで無意味である。アルトー村上春樹も好きなようになんでも言えばいい。解釈はご自由にどうぞ。映画も絵画も小説と同様に無意味である。永遠をそこに感じたところで私は永遠などではなくいまもこれからもつねに有限である。贅沢な食事も職業的成功も有限性の絶望を現実に解決することはできない。存在の有限性の絶望は無限性への信仰つまり宗教によっては「実際問題として」はまったく救われない。解釈や認識の問題ではなく、実際問題としての存在可能な空間の限定性(まさに「いまここ」にしか存在できない)によって不可避的に常に直面せざるをえない無力感。つまり、絶対的諦めの強制の問題。あれもこれもやるということはできず、いまここにしか存在できないことをなんとかできないかぎり、つねに絶対的か諦念(=悲しみ)のなかを生きなければならない。生にたいする全面的な積極的コミットメントを目指したところで、人間の有限性から必然的に帰結するこの諦念が根底にあるかぎりは、生にたいするデタッチメントの態度を拭い去ることはできない。これはよく言われるように行為主体としての責任を放棄している、とか、目の前の現実に目を背けているなどといった自由意志の問題ではなく、空間限定的存在としての人間という絶対的条件に由来する不可避の問題である。