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Fleur Aux Questions

よくあるご質問

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』③退屈の解決策について──退屈の根本的な解決策へ

哲学
 
「不法侵入」してくるものに「とりさらわれ」ることを「待ち構える」こと──が、〈動物になること〉で、それは、退屈を解決する受動的な方法である、と言ったが、全く何をする気も起きないほど退屈している人は別として、実はこれはある種の能動的な姿勢がないと、うまくいかない。
 
うまくいかない、というのはなぜかというと、「不法侵入」して人を「とりさらう」ものには、いいものもあればわるいものもあるからだ。
 
「不法侵入」してくるものに「とりさらわれ」ることを「待ち構える」ということ──これは普通の言葉で言い換えれば、ある「出会い」を「待ち構える」ということだ。
 
そしてその「出会い」には「いい出会い」と「わるい出会い」がある。
 
活動能力を増大させるものが「いい出会い」で、活動能力を減退させるものが「わるい出会い」だ。
 
だから、せっかく「不法侵入」してくるものに「とりさらわれ」て、〈動物になること〉ができ、退屈を逃れることができたとしても、それが「わるい出会い」であれば、むしろ人は退屈という存在論的な問題をこえて、身体や精神を破壊されてしまい、最悪の場合は死に至りさえしてしまうだろう。
 
たとえば、
 
就職活動中のA君は深い退屈に悩まされていた、そんな時、偶然参加した企業の説明会で、B社の事業を知り、とても心動かされ(「とりさらわれ」)、是非ここで働きたいと強く思い、真剣になってその企業の事業を調べたり、面接を受けたりして(〈動物になること〉)、めでたくその企業に入社できた。……しかし、実際に入社してみると、そこは劣悪な労働環境で、人間関係も悪ければ、組織運営もよろしくない中、毎日、朝早くから夜遅くまで働くことになってしまった……やがてA君は、身体も精神も疲れ果て、自殺を考えるようにまでなり……
 
──そんなふうに、せっかく退屈を逃れることができても、身体や精神がぼろぼろになるような「わるい出会い」をしてしまえば、もともこもない。
 
だから、退屈の解決策としての〈動物になること〉には、実際問題として、できるかぎり「わるい出会い」を避け、「いい出会い」ができるようにする、という能動的な姿勢が必要になる。
 
いい(自由である、思慮分別がある、強さを持つ)といわれるのは、自分のできるかぎり出会いを組織立て、みずからの本性と合うものと結び、みずからの構成関係がそれと結合可能な他の構成関係と組み合わさるよう努めることによって、自己の力能を増大させようとする人間だろう。〈よさ〉とは活力、力能の問題であり、各個の力能をどうやってひとつに合わせてゆくかという問題だからである。わるい(隷従している、弱い、分別がない)といわれるのは、ただ行き当たりばったりに出会いを生き、その結果を受け止めるばかりで、それが裏目にでたり自身の無力を思い知らされるたびに、嘆いたりうらんだりしている人間だろう。いつも強引に、あるいは小手先でなんとか切り抜けられると考えて、相手もかまわず、それがどんな構成関係のもとにあるかもおかまいなしに、ただやみくもに出会いをかさねていては、どうしていい出会いを多くし、わるい出会いを少なくしてゆくことができるだろうか。どうして罪責感でおのれを破壊したり、怨恨の念で他を破壊し、自身の無力感、自身の隷属、自身の病、自身の消化不良、自身の毒素や害毒をまき散らしてその輪を広げずにいられるだろうか。ひとはもう自分でも自分がわからなくなってしまうことさえあるのである。(ジル・ドゥルーズスピノザ』より)

 

以上のことをかんがみてみれば、人はもはや退屈をどうするかという存在論的な悩みに拘泥している場合ではないことがわかってくる。

そもそも、退屈するということ(すべてがどうでもいいとさえ思えるほどにまでいたる病)の原因は、「いい出会い」をできず、「わるい出会い」をかさねていることにあるのだと言えるだろう。

退屈とはまさしく活動能力の減退にほかならない。活動能力の減退の原因は「わるい出会い」をすることにある。

だから、

 

退屈の根本的な解決策は、できるかぎり「わるい出会い」を避け、できるかぎり「いい出会い」をすることである

 

「わるい出会い」を減らし、「いい出会い」を多くしていれば、深刻な退屈は自然に解消するだろう……というかそもそも発生しないだろう。

 

 

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)