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Fleur Aux Questions

よくあるご質問

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』①退屈の解決策について

 
國分功一郎の本(『暇と退屈の倫理学』)を読んだら、ハイデガーは退屈を三つに分けて考えたということが書いてあった。
 
その中でもっとも根源的な退屈である退屈の第三形式をあらわす言葉が、
 
「なんとなく退屈だ」
 
だという。どこで何をしているかに関わらず突然発生する声、
 
「なんとなく退屈だ」
 
この形式の退屈にうまく対処できる気晴らしは存在しない、とハイデガーは言う。
 
そこでどうするかといえば、ハイデガーは、なんとなく退屈ですべてがどうでもいいかのようなところまで行ったら、それはむしろ現存在の可能性を実現する決断に向かうチャンスだ、と言う。
 
國分は、そうやって決断することは決断の奴隷になる危険があるということで、他の解決策を二つ提示する。
 
その一つは、人間の持つ高い環世界間移動能力を活用して〈動物になること〉で、
 
もう一つは、ていうかもう普通に退屈と気晴らしを行ったり来たりするしかないし、その時の気晴らし(この気晴らしには仕事も含まれる)を十分楽しめるように訓練することが大切だ、と言う。
 
思うに、一つめの〈動物になること〉は、「不法侵入」してくる考えさせるものに「とりさらわれ」ることだから、それが重要な問題であっても、根本的には気晴らしの一種なので、二つめの解決策に含まれると言えると思う。
 
なので、國分の言う退屈の解決策は一つ。
 
それは、「人間は退屈と気晴らしを行ったり来たりするしかないので、気晴らしを十分に楽しめるようにする」ということだ。
 
この解決策には、「気晴らしを楽しむためには訓練が必要」という実践的な指針が含まれている。
 
ハイデガーがパーティーの時に、その場に流れている音楽にも、その場にいる人々にも、その場で提供された飲食物にも、楽しみを感じることができなかったのは、それらの気晴らしを十分楽しめるだけの訓練をしていなかったからだ、と言う。
 
これはよくわかる。音楽も、他人も、料理も、仕事も、すべて、退屈せず十分に楽しめるようになるためには、訓練する必要がある。
 
ただ私がひっかかるのは、
 
「気晴らしを楽しむために訓練する」ためには、まずそれらの気晴らしに対して心を開き、自分から積極的に関わって行く必要があるだろう、ということで、
 
すべてがどうでもいいかのように感じて「なんとなく退屈だ」と言っている人は、そもそもそういう気晴らしに対してなぜか積極的に関わって行くことができないから退屈しているのであって、「気晴らしを十分に楽しむために訓練すること」は、そういう退屈に対しては有効な解決策にならないんじゃないかな、と思うのである。
 
ハイデガーだって、パーティー会場に流れている音楽についてその作曲者や曲や演奏者がどういうものか隅々に至るまで詳しかったかもしれないし、その場にいる人々がそれぞれどのような人たちでどういうところが面白い人かとかもよく知っていたかもしれないし、提供された料理がどういう料理でどういうところが美味しいのかとかも熟知していたかもしれない。
 
(私は、パーティーの例における退屈の第二形式は、「なんとなく退屈だ」の第三形式の退屈から発生するものだと思う。)
 
だから、
 
「気晴らしを楽しむために十分な訓練はしたが、それらの気晴らしに対して心を開けない」「気晴らしがもはや許されないとわかっている」人の退屈に対しては、それこそハイデガーが言うような、「現存在の可能性を実現する決断に向かう」という解決策しかもはや有効ではない、のではないだろうか。
 
ていうか、退屈と気晴らしを行ったり来たりできて、さまざまな気晴らしを楽しめるほど心が開かれていていたり、何か考えさせるものに出会い〈動物に〉なって熱中できるような人って、そもそもはじめからそんなに退屈してないじゃん。
 
國分は、「スピノザの哲学は、わかる人にはわかるけどわからない人にはわからない」と言っているが、それと同じで、
 
そもそもそんなに退屈していない人は退屈をうまく解決できるので「退屈と気晴らしを行ったり来たり」したり「気晴らしを十分楽しむために訓練することができる」が、ハイデガーなみに退屈している人には退屈をうまく解決することができず、決断の奴隷になる危険を犯してでも「現存在の可能性を実現する決断に向かう」くらいしかない、っていう感じかな、と思うのです。
 
あちなみに「気晴らしを楽しむこと」には、消費社会の奴隷になるという危険性がある、と書いてありますね。
 
…ということは、退屈を解決する時には避けるべき危険性が二つあって、それは、
 
・現存在の可能性の実現に向かうという自分の下した決断の奴隷になること
 
と、
 
・消費社会の提供する過剰なレジャーのサイクル(「労働─余暇」のサイクル)の奴隷になること
 
の二つだと言える。
 
この二つの危険性を回避しながらであれば、退屈に対するハイデガーの解決策も、國分功一郎の解決策も、どちらも有効な解決策となりうると言えそうだ。
 
ようするに危険性を回避するバランス感覚をもって退屈に対処することが重要だ、ということですね。
 
 
 
……あれ?
 
そもそも、「なんとなく退屈だ」「すべてがどうでもいいように感じる」ような深い退屈に悩まされている人は、そんなバランス感覚を持つことなんてできるだろうか?
 
……??
 
 
──とりあえずの結論──
 
軽度の退屈の解決策は、「退屈と気晴らしを行ったり来たり」し、「気晴らしを十分楽しむために訓練する」ことである。
(注意点:消費社会の奴隷にならないこと)
(前提条件:深刻な退屈に陥ってはいないこと)
 
重度の退屈の解決策は、「現存在の可能性を実現する決断に向かう」ことである。
(注意点:自分の決断の奴隷にならないこと)
(前提条件:決断に向かえないほどの超深刻な退屈に陥っていないこと)
 
 
──より簡単な結論──
 
物事に対して心を開くこと。
(注意点:物事に対して心を閉ざさないこと)
(前提条件:すべての物事に対してまったく心を開けないほどの退屈に陥っていないこと)
 
 
──残された問題点──
 
現存在の可能性を実現する決断に向かうこともできず、すべての物事に対してまったく心を開くこともできないほどの退屈には有効な解決策はないのか?
 
 
──残された問題点を解決する糸口──
 
「良き意志[やる気]と自然的な思考をそなえたひとりの個別的な者ではなく、自然においても概念においてもうまく思考することができない、悪しき意志[やる気のなさ]に満ちた、ひとりの特異な者が存在している。ひとり彼のみが、前提なき者である。彼のみが、現実的に開始するのであり、現実的に反復するのである。(……)地下室の人間は、時代の教養の客観的前提のなかでも、自然的な思考の主観的前提のなかでも途方に暮れており、或るひとつの円環をつくるためのコンパスなどもちあわせていない者である。彼こそ、一時的でも永遠でもない《反時代的な》[時代に合わない]者である。ああ、シェストフ。彼が立てるすべを知っているもろもろの問い。彼が示しうる悪しき意志。彼が思考のなかに置くすべを知っている思考できないという無力。もっともラディカルな開始ともっとも頑固な反復とに同時に関わる、それら世話のやける問いのなかで彼が展開している、二重の次元。(ジル・ドゥルーズ『差異と反復』第三章 思考のイマージュより)
 

 

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)