小説

侵食 五

五 彼は言った。「私は妻を持っていません。特定の彼女も持っていません。その代わり私は不特定多数の女の肉体を持っています。名も知らず、素性も性格も何も知らない無数の女の肉体です」 彼は繊細な指先で糸人形を操るようにピスタチオの殻を器に落とすと…

金木犀 十一

十一 目が覚めたとき昇平は聡美の部屋にいた。淡いグリーンのカーテンの隙間から朝の日差しが差し込む。少し散らかった部屋の真ん中にローテーブルが置かれており、そこに聡美の書き置きがあった。 「冷蔵庫に野菜スープあるから朝ごはんに食べてね。鍵は玄…

金木犀 十

十 幾何学模様の床、古めかしい木目の壁、どこかの大きなホテルの中を子供用のカートに乗って走っている。二〇一号室、二〇二号室、二〇三号室と次から次へと部屋の扉ドアの前を通り過ぎる。その先に二〇七号室のドアが開いているのが見える。カートを停める…

【短編小説】『島』

一 島の半径は一キロメートルにも満たない。この島に漂着してから一ヶ月が過ぎ、どこに何があるのかはだいたいわかった。 一ヶ月前私はハワイ島から離島に向かうツアーに参加した。甲板で透き通る美しい海を眺めていると、突然天候が変わり、激しい嵐に呑ま…

金木犀 九

九 「大川くんは彼女とか作らないの?」と、聡美は言った。昇平はよく冷えた飲みかけのビールのジョッキを手に持ちながら、とりももにくのねぎまを口に含んだところだった。 「ん、あ、彼女、いたらいいよね」 いたらいいよね?およそ本心とは遠くかけ離れた…

【短編小説】『呪文』

タカハシくんはノートの端にいつもなにやら見たこともないような文字を書いていた。それから数学の授業でも見たこともないなんらかの図形も。 放課後の帰り道で僕がタカハシくんにいつもタカハシくんはなにを書いているのと聞くとタカハシくんは言った。 「…

侵食 四

四 屠畜場では豚や牛がたんなる肉塊となって天井からぶら下げられている。生暖かい血の匂いと、冷たい鉄の匂いが混ざった空気の中で、白い作業着の労働者達が、淡々と業務をこなしている。業務中の何気ない会話で「おまえの弁当に豚の臓器混入するぞ、わはは…

金木犀 八

八 夜の十時頃、妻や夫、彼氏彼女が待つ人たちがそろそろ帰らなきゃと言い出したので飲み会は解散した。他のみんなと別れた後、帰る方向が一緒だった昇平と聡美は二人で西武池袋線の改札へと向かって歩いた。 土曜の夜のホームは人で溢れている。数えきれぬ…

侵食 三

三 僕が彼に出会ったのはある夏の日の夜のことだった。仕事帰りにたまたま立ち寄ったバーのカウンターで隣に座っていた男が彼だった。 彼はラコステの緑のポロシャツに白いデニムを履き、よく磨かれた茶色の革靴を履いていた。テイスティンググラスを片手に…

侵食 二

二 いつも通りなんの手応えも得られなかったハローワークでの面談の帰り道にふと立ち寄った東池袋中央公園で彼は友達と楽しそうにはしゃぐ若い女たちを見た。見たところ二十代前半の大学生だろうか、人生の暗い側面など何も知らないしこれからも知る余地もな…

侵食 一

一 三十三歳の夏に十年以上務めてきた工場をリストラされてから、彼の人生は変わった。四年前に見合結婚した妻は家を出て行き、幼い娘の親権は妻に譲ることになった。 彼には親しく話す友人といったものはなく、会社の同僚たちとはたまの帰りに酒を肴に仕事…

金木犀 七

七 同窓会とは名ばかりで、実質は高校の同級生六人だけでの飲み会だった。昇平を含めて男は三人、女も三人、他人が見たら合コンにも見えなくもないが、話の内容は、どんな仕事してるのーとかかわいいねーとかではなく、子供がかわいいとかマンションを買うか…

金木犀 六

六 池袋駅からサンシャインシティの方へと歩いて数分のところにその居酒屋はあった。地図アプリを開いてみると、以前はバッティングセンターがあったが今ではもぬけの殻みたいになっている建物の対面のビルの七階にあるようだ。 また居酒屋かと昇平は思った…

金木犀 五

五 「大川くん、起きて。仕事行かなきゃ」 昇平は高坂美沙希の声によって起きた。どうやらあのあと酔い潰れて眠ってしまったところを美沙希に自宅まで連れられて介抱されていたらしい。 昇平は決して酒に弱いわけではなかった。大学時代のサークルの飲み会で…

金木犀 四

四 暗い灰色の壁に囲まれている。空を見上げれば星一つない真っ黒な平面が延長している。壁には等間隔に仄かな松明が架けられていて、振り向けば十メートル程背後に左右に分かれた道がある。松明に照らされて、奥からゆらゆらと揺れる髪の毛のような影が伸び…

金木犀 三

三 「大川くんは彼女とか作らないの?」 小一時間近く新しい彼氏の愚痴をぶつけてスッキリしたような口調で美沙希はストレートな質問をした。なんだかんだ言って高坂さんは仕事のできる人なので、「最近どう?」とか、「なんかいいことないの?」とか、そう…

金木犀 二

二 「はい、終わりー!ほら、いつまでもパソコンとにらめっこしてないで飲みに行くよ、大川くん!」 明日までに取引先に提出しなければならない提案書のレイアウトをあーでもないこーでもないと考え込んでいると、上司の高坂美沙希が両手で力強く肩を叩いて…

金木犀 一

一 出会いを求めていた。大川昇平二七歳。大学時代からの友人たちが次から次へと結婚して子供の話ばかりする中で、彼はいまだに独身で、特定の彼女もいなかった。 たまに合コンで知り合った女の子と寝ることはあっても、続かない。出会い系サイトでメッセー…

陰影

陰影 一 河川敷沿いのアパートの一階で暮らしていた。朝六時に起き、徒歩五分の工場に向かい、夕方六時まで金属を加工して活字を作るのが仕事であった。社員は自分を含めて五人、みな気の良い五十歳前後の男たちだった。一日の仕事を終えると彼らが晩酌をす…

陰影 十三

十三 小さな町工場にも夏休みはある。たった五日間でも夏休みは夏休みだ。旅行に行くもよし、家でのんびり過ごすもよし、それぞれが好きなように過ごす五日間。毎日顔を付き合わせている活字から離れて過ごす五日間。 活字と向き合わないのなら、その代わり…

陰影 十二

十二 雄二の背中から何本もの触手が生えてくる。それは脳髄のような色と質感をしておりうねうねとのたうちながら四方に伸びていく。腕や脚の毛が人間の体毛から獣のような灰色の毛に変わっていく。耳は針のように尖って、目は黒一色に染まり、歯は胸のあたり…

陰影 十一

十一 いつもの雄二だった。雄二はいつだって延々と話しまくる。そうだ、目の前のこの雄二、自意識の部分だけと言っているが、思い返してみれば、まさしく雄二は、いつだって自意識の塊のような奴だった。自意識の塊のような奴は嫌いだ、クリエイティブをこと…

陰影 十

十 活字を彫ることと、薄紫色の靄のかかった空間で獣と人間の混ざった声のする方へと近付いて行くことは、ほとんど変わらない。未だ具現化していない物質にこちらから影響を及ぼして、確かな形を形成させることが目的であり、それ以外のことは枝葉に過ぎない…

陰影 九

九 「おまえは雄二なのか。こんなところで何をしてるんだ。おまえ、死んだんじゃなかったのか」 薄紫色の淡い靄に包まれて、こちらに背を向けて蹲っているそれに、思わずそう問いかけていた。 「ぶしゅるぅぅぅ、ぶしゅるぅぅぅ」 それは問いかけに答える様…

陰影 八

八 二年前の夏、雄二は死んだ。雄二の妻の仁美さんから突然電話が来て、それを知った。入水自殺だった。ある日突然雄二が帰ってこなくなり、仁美さんが警察に捜索願いを出したが見つからず、雄二の務めていた会社の人も、その日にいつも通り定時退社した雄二…

陰影 七

七 「ふしゃるぅぅ、ぶぉぁぅぉぁ」 「ぶぉぉぉお、おぅおぁぅうう」 一歩また一歩と薄紫色の靄をかき分けて進むほど、声は次第に大きく近くなっていく。いったい何なんだ。何故こんなことになっている。何故逃げることができないのか。何故自分の意思とは裏…

陰影 六

六 大学時代、雄二は口癖のように言っていた。 「人間の想像力なんてたかが知れている。それでも、人間は想像するしかないんだ」 人間の想像力か、そんなことを考えなくたって、人間は想像するじゃないか、想像力の範囲がどこまで及ぶか考えるより、とりあえ…

陰影 五

五 朧げな眠りから重い瞼を上げると、いつの間にか深い霧は薄く四方へ拡散し、底に沈んでいた意識が水面に浮上して来るのを感じる。覚束ない体を少しづつ起こし、周囲を見回してみると、さっきまで乗っていた自転車が何処にも見当たらない。たしかに河川敷で…

陰影 四

四 ゾンビはすでに死んでいる。死んでいるとは如何なる状態の事を云うのだろう。ゾンビは肉体が動いていても魂がない。物事を判断する理性というものがない。他の人間と話をする事も出来ない。それでは死んでいるとはつまり理性を失っている状態の事だろうか…

陰影 三

三 百メートル程の商店街のちょうど中間辺りに街で唯一のレンタルビデオ屋がある。店先に自転車を停めレインコートを脱いで中に入る。黒い半袖シャツの店員が暇そうに何やら棚を弄っている。レジにいる二十代後半くらいの店員がガシャッガシャッと手際よくケ…