【小説】『島』

 

 

 

 

 一

 島の半径は一キロメートルにも満たない。この島に漂着してから一ヶ月が過ぎ、どこに何があるのかはだいたいわかった。一ヶ月前私はハワイ島から離島に向かうツアーに参加した。甲板で透き通る美しい海を眺めていると、突然天候が変わり、激しい嵐に呑まれ船は転覆した。

 

 二

 気がついた時、私はこの島の浜辺に打ち上げられていた。暖かい太陽の日差しに包まれて、私は眠りから覚めた。はじめは途方に暮れた。ここでは今まで生きてきた経験は何も役に立たないように思えた。ロビンソンクルーソーの物語を机上で読むのと、実際に自分が無人島で生き延びるのとでは、全く話が違った。

 

 三

 衣服はある。季節は夏なのでとりわけ暖をとる必要はない。まず必要なのは食糧だ。次に安心して寝泊まりできる家だ。食糧を探して浜辺を見渡すと、カニが何匹も浜辺を歩いている。まずはあれを食べてみようと思った。しかし、なまで食べるわけにはいかない。体を壊したらおしまいだ。つまり、焼く必要がある。焼くためには火を起こす必要がある。

 

 四

 火の起こし方は、インターネットでマサイ族がやっているやり方を見て、知っていた。まず藁みたいなものを敷いて、その上に切り込みを入れた木の板を置き、それを木の棒で擦るやり方だ。藁に火種がついたら、その周りをさらに繊維で囲って息を吹きかけ、火を起こす。

 

 五

 木が必要だ。それから木を加工するためのナイフのようなものも。見渡せば木はたくさんある。浜辺に沿って林があり、その向こうになだらかな丘がある。問題はナイフだ。ナイフではなくても、何か刃物のようになるもの、木を切ったり加工したりすることができるものが必要だ。

 

 六

 必要がすべてなのかといえば、そうでもなかった。火を起こして、魚介類や木の実を食べて、木組みの小屋で寝泊まりして、必要はすべて満たしても、何かが足りないと思うのが人間の常である。インターネットがないことにはまったくなんの不満もなかった。この島で生きるためには無数の情報も娯楽もいらない。

 

 七

 情報は、なまの情報に限られていた。どこに木がある、どこに食糧がある。どこで寝泊まりできる。そういう一次情報さえあれば生き延びることはできたし、それにより正確に言えば、この島には一次情報しかなかった。

 

 八

 こうして孤独に小さな島で暮らしていて、自分でも驚いたのは、他人に囲まれて街で暮らしていた時より、あきらかに心が穏やかになったことだ。孤独感に蝕まれて精神に異常をきたすかと思ったが、実際はその逆だった。他人こそが、孤独感を発生させていたのだ。他人こそが、精神を蝕んでいたのだ。

 

 九

 他人なしで、情報なしで、必要は満たされていた。それでも、心のどこかに、必要以上の何かを欲する気がしていた。それが何なのかは、自分でもはっきりとはわからなかった。

 

 十

 フライデーが現れたのは、この島に漂着してからだいたい二週間後のことだった。彼がはじめからこの島に住んでいたのか、それともどこか別の浜辺に漂着してきたのかはわからなかったが、とにかく彼は突然私の前に現れた。

 

 十一

 何語かもわからない言葉を話す彼は、狂ったように叫びながら、私が作り上げた小屋や生活のための道具の類をことごとく破壊し尽くした。何も悪気があってやったわけではない。純粋に、子供のように、破壊することが好きなだけという様子だった。私が食糧を分け与えてやると途端に大人しくなり、言葉も通じないまま兄弟のように仲良くなった。

 

 十二

 ある朝目覚めた時、彼は浜辺に倒れていた。彼の脈は止まっていた。何故かはわからないが、どうやら溺れて死んだようだった。私は小屋から少し離れた林の奥に彼を埋葬し、木組みの墓を建ててやった。以前読んだことのある小説の登場人物になぞらえて、墓碑銘には英語でフライデーと書いた。少しも悲しくはなかった。彼は突然現れて、突然去った。ただそれだけのことだ。

 

 十三

 水平線の向こうから、一隻の船の影が見える。ようやく助けが来たようだ。住めば都というが、無人島も住んでみればなかなかわるくはない。決してよくもないが。少なくとも他人に煩わされることはない。そんなある種快適な生活に終わりが来ることをなかば名残惜しく思う自分がいる。

 

 十四

 しかし、再びもとの生活に戻れるのなら、それもまたわるくはないだろう。船の影はこちらに近づいて来る。甲板に人影のようなものが動いているのが見える。こちらに向かって手を振っているのだろうか。そう思った矢先、暖かい太陽の光に照らされてその影が姿を現した。そして、私はそれが人なんかではないことに気づいた。

 

 十五

 あれは蛸だ。二足歩行で、無数の腕が生えた蛸。有り体に言えば蛸人間とでも呼ぼうか。その蛸人間が私に向かって手を振っている。言葉は発していないが、心でわかる。彼は私を助けに来たと言っている。「アナタヲ、タスケニキマシタ、イッショニイキマショウ」

 

 十六

 蛸人間の国とはどんなものだろう。魚介類は食べられなくなるだろうか。なにか微生物のようなものを、食べることになるのだろうか。おそらく慣れてしまえば、それもわるくはない。私はそう思う。それが蛸人間だろうが、烏賊人間だろうが、少なくとも他人よりはずっといい。蛸人間のぬるぬるした手に引かれて、私は救助船に乗った。