日々のけむり

 

かろうじてまとまりを保っている

身体が精神によってなのか

精神が身体によってなのか 

自分自身というものは

自分自身について何も知ってはいない

明日がくることも

今日がこうして過ぎていくことも

かろうじてつかめる気がしている

すぐにまた手からこぼれ落ちる

いくつかのフレーズ

いくつかのトピックにつれて

途切れ途切れに過ぎ去っていく

時間とイメージの数々に

おぼろげな思いをはせる

たばこのけむりのように

自分自身というものの存在は 

空気に霧消していく

それでいてなにがまとまりを

保っていると言えるだろうか?

 

 

『テクストの楽しみ』ロラン・バルト

 

あなたが書くテクストは、それが私を欲望する証拠を私に与えてくれなくてはならない。p12

 

読むことの楽しみはあきらかに、ある種の決裂から生まれる(あるいは、ある種の衝突から)。p13

 

文化やその破壊がエロティックになるのではない。エロティックになるのは、その双方の裂け目なのだ。p13-14

 

楽しみが求めるのは、放心の場なのだ。歓びの核心において主体をとらえる裂け目であり、切断であり、デフレーションであり、フェイディングなのだ。p14-15

 

大いなる物語の楽しみを生むのは、読むことと読まないことのリズムそのものなのである。プルーストや、バルザックや、『戦争と平和』を、一語一語読むものがいるだろうか?p23

 

私が物語において味わうものは、それゆえ、直接にその内容でもなければ、その構造でさえもない。むしろ、美しい包装に私が押しつける擦り傷である。p23

 

この読書を魅するのは、(論理的な)発展や、真理の剥奪ではなく、生成する意味の薄層である。p24

 

テクストを楽しみに応じて判断するというのなら、こんなふうに言ってすますわけにはいかない、ーーこれは良い、これは悪い、と。受賞作は決められないし、批評することもできない。なぜなら批評というものはつねに、技術的な狙いや、社会的な礼儀、多くの場合、想像上の口実を含むものだから。このテクストは完全なものになる余地があり、これはあまりにもこれであり過ぎるとか、これは充分にあれではない、といったふうに、規範的な述語の戯れで片づけて、配分したり、想像したりすることのできるものではない。テクストは(歌う声についても同様なのだが)、まったく形容を含まない判断しか、私から抽き出すことはできない、ーー「これ、これですよ!」、さらにまた、ーー「私にとって、これですよ!」。p26

 

テクストの活気(実際、これがなければ、テクストは存在しない)。それはテクストの歓びへの意志である。そこにおいてはじめて、テクストは要求を超え、おしゃべりを超越する。p27

 

楽しみのテクストーー満足させ、満たし、幸福感を与えるもの。文明からやって来て、文明と決裂することなく、読書の心地よい実践とむすばれるもの。歓びのテクストーー放心の状態におくもの、意気阻喪させるもの(おそらくある種の倦怠にいたるまで)。読者の、歴史的、文明的、心理的な基底だとか、その趣味、その価値観、その記憶の一貫性を揺り動かすもの、読者と言語の関係を危機に落とし入れるもの。p28

 

敵対者とは、テクストとその楽しみの排除を宣言する、あらゆる種類のうるさ型である、ーー文化的な順応主義による者にせよ、一徹な合理主義(文学の〈神秘主義〉を疑う)による者にせよ、政治的なモラリズムによる者にせよ、記号表現の批評による者にせよ、愚かしい実用主義による者にせよ、道化た愚行による者にせよ、言葉の欲望の喪失にひとしい、言説の破壊をこととする者にせよ。p29-30

 

テクストの楽しみ、それは私の身体がそれ自身の思念にしたがおうとする、この瞬間のことなのだーーなぜなら、私の身体は私とおなじ思念を持たないから。p34

 

いかにして批評を読むか?唯一の手段がある。(…)ーー私は楽しみの覗き屋になればよい。私はひそかに他人の楽しみを観察する。私は倒錯行為に耽る。注釈はそういう場合、私にとってテクストになり、フィクションになり、裂けた皮膜になる。p35

 

楽しみをあつかうテクストは短いものにならざるをえない(ちょうど人が「これだけ?ちょっと短いな」と言うように)。p36

 

楽しみは理解や感覚のロジックに依拠するものではない。それは漂流だ。(…)なにかしらニュートラルなもの?お分かりのように、テクストの楽しみはスキャンダラスなものだ、ーーそれが背徳的であるという理由によってではなく、一所不在であるという理由によって。p46

 

それは軽やかで複雑な、手入れされて、ほとんど軽率なおこないであればいい。頭の突然の動きとか、私たちが聴いているものをなにも聞いていない、私たちが聞いていないものを聴いている、一羽の小鳥の動きのような。p50

 

アンニュイは歓びから遠いものではない。それは楽しみの岸辺から眺められた歓びなのである。p52

 

言葉がエロティックでありうるのは、正反対の、どちらの場合でも度はずれな、ふたつの条件においてである、ーー過度にくり返されるか、あるいは逆に、その新しさによって思いがけない、味わい深いものになるか(…)。p85

 

古びないのは天気であって、アミエルの哲学ではないのである。p109

 

それはまさしくエポケーであり、中断であって、容認された(みずからによって容認された)あらゆる価値を、遠くからフリーズさせるものだ。(…)あるいはすくなくとも、楽しみが宙づりにするものは、意味内容の価値ーー(正義の)〈立場〉である。p132

 

 

テクストの楽しみ

テクストの楽しみ

 

 

『琥珀色の街、上海蟹の朝』くるり


くるり - 琥珀色の街、上海蟹の朝 / Quruli - Amber Colored City, The Morning of The Shanghai Crab (Japanese ver.)

 

 

またくるりは余計なことをした。くるりはいつも余計なことをする。そして余計なことをするのがうまい。中途半端なクオリティを極めている。

 

表題曲の『琥珀色の街、上海蟹の朝』は、よくできたラップミュージックである。シティポップと真部脩一のパクリ的なナンセンス詞をかけあわせ、軽妙なバランス感覚で、最高におしゃれで洗練された楽曲に仕上げている。

 

くるりを聴くという時間は、いったいどこにあるのだろう?人は日々めまぐるしく活動する中で音楽を聴く時間をなかなか得ることができない。せいぜい通勤の途中か、寝る前の小一時間といったところだろうか。そんな限られた時間にくるりを聴くというのは相当物好きな人物だといえるだろう。

 

現代においては、暇な人間しか邦楽つまりくるりを聴かない。音楽に通じた多忙な者たちは加藤ミリヤ清水翔太、あるいはその両者のコラボ楽曲を聴くことで時間を有効活用することであろう。

 

くるりのことはいったん忘れよう。もとよりそれほど重要なバンドではない。なぜ重要でないのかといえば、曲が洋楽の焼き直しであるとか、ポップさに欠けるとか、真に創造的でないとか、ということではなく(もちろんその通りだが)、単純に、曲が長すぎるからである。

 

3分という時間は長すぎる。3分あればウルトラマンは地球を一体の怪物から救えるし、カップラーメンも作れるし、顧客に見積もりを一件送ることだってできる。そんな貴重な時間をわざわざ余計なことをして過ごす意味がわからない。まったく無駄である。(ちなみに『琥珀色の街、上海蟹の朝』は5分以上ある)

 

人は事実において、かぎりある時間を無駄にすることができる。その点において、くるりを聴くことには意味がある。余計なことをあえてやること、無意味と戯れること。そうした実践的アティチュードをもった者にとって、くるりというバンドは、絶妙な一過性の消費物として流通しているのである。

 

くるり『琥珀色の街、上海蟹の朝』スペシャルインタビュー

 

http://t.clubberia.com/ja/interviews/334-Masayoshi-Fujita-Jan-Jelinek/

 

 

琥珀色の街、上海蟹の朝

琥珀色の街、上海蟹の朝

 

 

 

Bird, Lake, Objects

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PPAP(DVD付)(通常仕様)

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