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Fleur Aux Questions

よくあるご質問

「私にとって」文章の楽しさとは何か?ーー冒険小説と詩的な観想文

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文章を読む楽しみは、考えれば

考えるほど遠ざかるのかもしれ

ない。楽しいとは何か考えだす                *楽しさは

と、楽しいという気分のモード                思考のなさ

ではなくなる。楽しいとは何か                にあると言

考えることじたいが楽しければ                えるだろう

いいが、そういうわけでもない                か?

ロラン・バルトにしても楽し

みを思索する『テクストの楽し

み』よりも、むしろ日記として

つづられた『喪の日記』のほう                *「私は悲

が(不謹慎ではあるが)、読ん                しみの中に

でいて楽しさを感じる。ここ数                しか生きた

年間、読んでいて単純に楽しく                くない」と

てスムーズに読み進めてしまっ                バルトは言

た本はデュマの『モンテ・クリ                った。

スト伯』が最後だったかと思う

が、やはり物語のほうが文章の

楽しさを感じさせるのだろうか

。とはいえ、フローベールの『

ボヴァリー夫人』とか、タブッ

キの『インド夜想曲』を読んだ

りしても、文章の楽しさはいま

ひとつ感じられなかった。これ

は一般論ではなく、「私にとっ

て」文章の楽しさは何かという

多分にバルト的な問題なのだろ

うか。それでは、「私にとって                *問題はい

」どんな文章が楽しさを感じさ                つも「私に

せるのだろう。私が文章に楽し                とって」そ

みを感じて読んだのは、前述の                れがどうで

モンテ・クリスト伯』や、中                あるかとい

学生の頃に読んだヘミングウェ                うことだ。

イの『老人と海』、浪人生の頃

に読んだトゥルニエの『フライ

デーあるいは太平洋の冥界』、

大学生の頃に読んだポーの『ア

ッシャー家の崩壊』などがまず

想起されるが、これらの物語に

どういう共通点があるか考えれ

ば、「私にとって」文章の楽し

さは何かがわかるだろうか。ま

ずいずれも、冒険小説と呼べる

と思う。海から牢獄へ、牢獄か

ら社交界へ。小屋から海へ、海                *トゥルニ

から小屋へ。海から無人島へ、                エにとって

無人島から大陸へ。街から辺鄙                、他者=他

な屋敷へ、屋敷から崩壊へ。移                人の目こそ

動する空間の変化をみれば、い                が混乱の原

ずれも日常の空間から非日常の                因だった。

空間へと移動している。そして

、非日常の空間で非日常な人物

や事物たちと出会う。あと、海

や山奥とかが多い。そういえば

ル・クレジオの『地上の見知ら                * 『物質的

ぬ少年』を忘れていた。これこ                恍惚』『悪

そ最高だ。冒険+詩的な観想。                魔祓い』『

わかった。私は、「冒険+詩的                調書』など

な観想」の文章に楽しさを感じ                もすぐれて

るのか。「冒険+詩的な観想」                詩的な観想

。冒険の舞台はもしかしたら、                文である。

どこでもいいのかもしれない。

海や山奥などの非日常性の高い

空間のほうが、人はより詩的に

なりうるという点で海や山奥が

多いのかもしれないが。冒険は

空間の移動より、未知の事物や

人物との出会いが冒険を冒険た

らしめるのだろう。

 

/

 

「詩的な観想」のほうは、定義

づけが難しい。それについて考

えることにしよう。詩的とはつ

まり、詩である。とはかぎらな

い。詩そのものは詩的ではない                *詩には決

。そして詩そのもは別に文章の                まりごとが

楽しさを感じさせない。詩はい                多すぎて、

つも小難しくて、なんかむかつ                あらゆるう

くのである。詩はお高くとまっ                るさ型の巣

ている。穂村弘が自由な短歌を                窟となって

お勧めするときでも、なんだか                しまってい

えらそうである。いらっとする                る。

。つまり楽しくはない。詩その

ものは楽しくない。詩的な文章

は、詩そのものになりきれなか

ったいわば出来損ないの文章で

ある。それがいい。村上春樹

んかは詩的な文章を書くと言え

るだろうか。詩っぽさはどこか

らくるのだろう?おそらく「…                *パスタを

?」という疑問の姿勢。未知を                茹でながら

定義づけることも詩でありうる                ロッシーニ

が、未知をそのまま言葉にする                を聴くこと

とき文章はいかにも詩っぽくな                だけで文章

る。そう考えると冒険はいちい                を書くとは

ち詩的でありうる。須賀敦子の                なんて不敵

紀行文はとても詩的である。檀                だろうか。

一雄の料理紀行文もまたとても

詩的である。もちろん須賀敦子

檀一雄も詩そのものではない

。散文である。散文と呼ぶほど

のこともないエッセイである。

ランボーはどうだろう。詩その

ものとは思えない。ランボーも                *『書簡で

また詩的な観想文を書いたと私                読むアフリ

は言いたい。街々との出会い、                カのランボ

ヴェルレーヌとの出会い。それ                ー』は、詩

らを詩っぽい気分で文章にした                を放棄した

というわけだろう。ロートレア                後のランボ

モンも同様だ。内面の冒険。詩                ーの文章や

っぽい気分でつれづれなるまま                足跡が読め

の。ドゥルーズが言いたかった                てとても面

のも同じだと思う。「自分の知                白い。

の先端で書くこと」。知らない

ものについて書くのでなければ

詩っぽくはなりにくい。

 

 

モンテ・クリスト伯〈1〉 (岩波文庫)

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老人と海 (新潮文庫)

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ポオ小説全集 1 (創元推理文庫 522-1)

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地上の見知らぬ少年

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ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)

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須賀敦子全集 第1巻 (河出文庫)

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檀流クッキング (中公文庫BIBLIO)

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記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)

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マルドロールの歌 (集英社文庫)

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書簡で読むアフリカのランボー

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ロラン・バルト『テクストの楽しみ』

 

あなたが書くテクストは、それが私を欲望する証拠を私に与えてくれなくてはならない。p12

 

読むことの楽しみはあきらかに、ある種の決裂から生まれる(あるいは、ある種の衝突から)。p13

 

文化やその破壊がエロティックになるのではない。エロティックになるのは、その双方の裂け目なのだ。p13-14

 

楽しみが求めるのは、放心の場なのだ。歓びの核心において主体をとらえる裂け目であり、切断であり、デフレーションであり、フェイディングなのだ。p14-15

 

大いなる物語の楽しみを生むのは、読むことと読まないことのリズムそのものなのである。プルーストや、バルザックや、『戦争と平和』を、一語一語読むものがいるだろうか?p23

 

私が物語において味わうものは、それゆえ、直接にその内容でもなければ、その構造でさえもない。むしろ、美しい包装に私が押しつける擦り傷である。p23

 

この読書を魅するのは、(論理的な)発展や、真理の剥奪ではなく、生成する意味の薄層である。p24

 

テクストを楽しみに応じて判断するというのなら、こんなふうに言ってすますわけにはいかない、ーーこれは良い、これは悪い、と。受賞作は決められないし、批評することもできない。なぜなら批評というものはつねに、技術的な狙いや、社会的な礼儀、多くの場合、想像上の口実を含むものだから。このテクストは完全なものになる余地があり、これはあまりにもこれであり過ぎるとか、これは充分にあれではない、といったふうに、規範的な述語の戯れで片づけて、配分したり、想像したりすることのできるものではない。テクストは(歌う声についても同様なのだが)、まったく形容を含まない判断しか、私から抽き出すことはできない、ーー「これ、これですよ!」、さらにまた、ーー「私にとって、これですよ!」。p26

 

テクストの活気(実際、これがなければ、テクストは存在しない)。それはテクストの歓びへの意志である。そこにおいてはじめて、テクストは要求を超え、おしゃべりを超越する。p27

 

楽しみのテクストーー満足させ、満たし、幸福感を与えるもの。文明からやって来て、文明と決裂することなく、読書の心地よい実践とむすばれるもの。歓びのテクストーー放心の状態におくもの、意気阻喪させるもの(おそらくある種の倦怠にいたるまで)。読者の、歴史的、文明的、心理的な基底だとか、その趣味、その価値観、その記憶の一貫性を揺り動かすもの、読者と言語の関係を危機に落とし入れるもの。p28

 

敵対者とは、テクストとその楽しみの排除を宣言する、あらゆる種類のうるさ型である、ーー文化的な順応主義による者にせよ、一徹な合理主義(文学の〈神秘主義〉を疑う)による者にせよ、政治的なモラリズムによる者にせよ、記号表現の批評による者にせよ、愚かしい実用主義による者にせよ、道化た愚行による者にせよ、言葉の欲望の喪失にひとしい、言説の破壊をこととする者にせよ。p29-30

 

テクストの楽しみ、それは私の身体がそれ自身の思念にしたがおうとする、この瞬間のことなのだーーなぜなら、私の身体は私とおなじ思念を持たないから。p34

 

いかにして批評を読むか?唯一の手段がある。(…)ーー私は楽しみの覗き屋になればよい。私はひそかに他人の楽しみを観察する。私は倒錯行為に耽る。注釈はそういう場合、私にとってテクストになり、フィクションになり、裂けた皮膜になる。p35

 

楽しみをあつかうテクストは短いものにならざるをえない(ちょうど人が「これだけ?ちょっと短いな」と言うように)。p36

 

楽しみは理解や感覚のロジックに依拠するものではない。それは漂流だ。(…)なにかしらニュートラルなもの?お分かりのように、テクストの楽しみはスキャンダラスなものだ、ーーそれが背徳的であるという理由によってではなく、一所不在であるという理由によって。p46

 

それは軽やかで複雑な、手入れされて、ほとんど軽率なおこないであればいい。頭の突然の動きとか、私たちが聴いているものをなにも聞いていない、私たちが聞いていないものを聴いている、一羽の小鳥の動きのような。p50

 

アンニュイは歓びから遠いものではない。それは楽しみの岸辺から眺められた歓びなのである。p52

 

言葉がエロティックでありうるのは、正反対の、どちらの場合でも度はずれな、ふたつの条件においてである、ーー過度にくり返されるか、あるいは逆に、その新しさによって思いがけない、味わい深いものになるか(…)。p85

 

古びないのは天気であって、アミエルの哲学ではないのである。p109

 

それはまさしくエポケーであり、中断であって、容認された(みずからによって容認された)あらゆる価値を、遠くからフリーズさせるものだ。(…)あるいはすくなくとも、楽しみが宙づりにするものは、意味内容の価値ーー(正義の)〈立場〉である。p132

 

 

テクストの楽しみ

テクストの楽しみ

 

 

くるり『琥珀色の街、上海蟹の朝』ーー余計なことをあえてやること、無意味と戯れること

 

 

またくるりは余計なことをした。くるり

いつも余計なことをする。そして余計なこ

とをするのがうまい。中途半端なクオリテ

ィを極めている。

 

表題曲の『琥珀色の街、上海蟹の朝』は、

よくできたラップミュージックである。シ

ティポップと真部脩一のパクリ的なナンセ

ンス詞をかけあわせ、軽妙なバランス感覚

で、最高におしゃれで洗練された楽曲に仕

上げている。

 

くるりを聴くという時間は、いったいどこ

にあるのだろう?人は日々めまぐるしく活

動する中で音楽を聴く時間をなかなか得る

ことができない。せいぜい通勤の途中か、

寝る前の小一時間といったところだろうか

。そんな限られた時間にくるりを聴くとい

うのは相当物好きな人物だといえるだろう

 

聴くというだけでは飽き足らず、こうして

文章まで書いているとなるともはや物好き

の最たるものでさえある。いったい私は何

を好き好んでかぎりある時間を無駄にして

いるのだろうか?つまり、暇なのである。

 

現代においては、暇な人間しか邦楽つまり

くるりを聴かない。音楽に通じた多忙な者

たちは加藤ミリヤ清水翔太、あるいはそ

の両者のコラボ楽曲を聴くことで時間を有

効活用することであろう。

 

くるりのことはいったん忘れよう。もとよ

りそれほど重要なバンドではない。なぜ重

要でないのかといえば、曲が洋楽の焼き直

しであるとか、ポップさに欠けるとか、真

に創造的でないとか、ということではなく

(もちろんその通りだが)、単純に、曲が

長すぎるからである。

 

3分という時間は長すぎる。3分あればウ

ルトラマンは地球を一体の怪物から救える

し、カップラーメンも作れるし、顧客に見

積もりを一件送ることだってできる。そん

な貴重な時間をわざわざ余計なことをして

過ごす意味がわからない。まったく無駄で

ある。(ちなみに『琥珀色の街、上海蟹の

朝』は5分以上ある)

 

琥珀色の街、上海蟹の朝』のPVは、と

てもかわいいアニメーションになっている

。少年(たしか少年だったと思う)が車に

乗って、たしか犬とか猫に出会ったりする

ような、そんな感じの。それがどうかとい

えば、どうでもないわけだが、つまりはそ

ういうことである。

 

人は事実において、かぎりある時間を無駄

にすることができる。その点において、く

るりを聴くことには意味がある。余計なこ

とをあえてやること、無意味と戯れること

。そうした実践的アティチュードをもった

者にとって、くるりというバンドは、絶妙

な一過性の消費物として流通しているので

ある。

 

くるり『琥珀色の街、上海蟹の朝』スペシャルインタビュー

 

Masayoshi Fujita & Jan Jelinek Interview | クラベリア

 

琥珀色の街、上海蟹の朝

琥珀色の街、上海蟹の朝

 

 

 

Bird, Lake, Objects

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PPAP(DVD付)(通常仕様)

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クリス・バック ジェニファー・リー『アナと雪の女王』ーー真のテーマ曲は「Let It Go」ではなく「雪だるまつくろう」だということについて

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いまさらですが、『アナと雪の女王』を観ました。

まず、オラフがかわいかった。それにつきます。

 

エルザは生まれつき氷の魔法の力を持っていて、その使い方次第では人を傷つけてしまう。

そういう、すごいけど人を傷つけることもある

自分の個性をどうコントロールするのかというのがテーマ。

 

ストーリーに深みがないという評価もよく見るけど、個性にたいしてただ開き直るだけのティム・バートンなんかよりはだいぶ良心的だし、こどもにとってはとても教訓的でいいです。

 

王子様幻想なんかも打ち砕いてみせるし(これを早い段階で打ち砕くのは非常に重要です)、ほんとうに愛するべきはやさしいひとなんだという重要なメッセージもちゃんとあります。

 

成長すると魔法が使えなくなるのはよくあるパターンですが、エルザの場合は魔法をちゃんといい面だけにコントロールして使えるようになるとしているのがよい。

 

印象的なのは、「とびら開けて」や「Let It Go」などの愛や自由の曲が、実際はにせものの自由のとにせものの愛の場面で歌われているということ。

 

だれしも歌い出したくなるような自由や愛の場面があるものだと思いますが、そのあとにそれがほんものじゃなかったと知る経験もあるおとなにとってはとても考えさせられることだなと思いました。

 

オラフは虚構の存在ですが、ほんものの愛や自由の存在です。アナに対するエルザのほんものの愛が生み出した雪だるま。

というわけで、『アナと雪の女王』のメインテーマ曲はじつは「Let It Go」ではなく、「雪だるまつくろう」です。

 

 

雪だるま作ろう

 

 

アナと雪の女王 ザ・ソングス 日本語版

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清水富美加の出家についてーー科学的にみたばあいの他人の幸福と自分の幸福

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友人が出家したことがある。

彼は職場の休憩室でいつも仏        *友人は京

教関係の書籍を読んでいた。        都のお寺で

私はフランス哲学をよく読ん        二年間修行

でいたので、互いの得た知見        に入ってい

などを話し合ったりしていた        る。

 

Facebookで彼が出家すると知

ったとき、たんじゅんにすご

いと思った。出家するという        *出家して

のはけっこうな覚悟がいる行        普通の交友

為だ。出家するとふつうの交        関係を継続

友関係ができなくなるし、一        できるのは

つの観点からものごとを眺め        安直な宗派

なくてはならない。                      である。

 

思うに、出家するというのは

、自らが悩みや苦しみから救        *自分が救

われるためにするものではな        われるため

く、世の中の悩みや苦しみを        にするなら

救うためにするものだ。信心        邪心がある

による心の救済は確実にある        と言われて

し、そのためのメソッドは独        も仕方がな

学ではなかなか得られない。        い。

 

清水富美加が出家すると話題

になっているが、そもそも芸

能人は出家と相性がいい。芸        *要するに

能人が芸能人をやる動機は、        どっちの方

たくさんの人を元気にすると        が効率よく

いうこととたくさんの金を稼        稼げるかと

ぐということだ。そしてその        いうこと。

ふたつの動機は出家によって

も満たされる。

 

役に合わせて様々な演技をし

なければならない芸能人と違

って、出家のばあいはひとつ

の役割を演じるだけでいいと

いう利点さえある。(ある種

の宗教では様々な役を演じる

者もいるようだがそれは例外

としよう)芸能人は実力主義        *セーフテ

で淘汰されていくが、出家に        ィネットと

は実力に関わらず信仰体系を        しての機能

受け入れる条件付きだがつね        は古くから

セーフティーネットがある        ある。

 

出家と聞くとやれ洗脳だなん

だといちゃもんをつける人が        *もちろん

たくさんいるが、それはご本        洗脳によっ

人の人生の選択であり、他人        て活動資金

がとやかくいう領域ではない        のカモを獲

。私の友人のばあいは、洗脳        得しようと

だなんだと一瞬も思わなかっ        する者もい

たし、むしろかれの興味関心        るだろう。

の方向性からみてまったく妥

当だと思ったものだ。

 

他人が期待する自分と、自分

がそうありたい自分というも

のは、おうおうにしてすれ違

うものだ。それが一致すると

き、本人も他人も科学的にい

って幸福でありうる。科学と        *幸福は各

は誰が検証しても成立しうる        人によって

法則のことだ。誰が検証して        あり方が異

も成立するものは、すぐれた        なるので、

特技を持った人がわざわざす        科学の問題

る必要もない。                             ではない。

 

私の友人のばあいは、かれの

特技と仏道が一体となってよ

りすぐれたものを生み出し本

人にも他人にも幸福をもたら

すと思えた。清水富美加のば

あいは、はたしてどうだろう

か。その出家によって、本人

も他人もより幸福でありうる

だろうか。いずれにせよ、ご

本人、また周囲の人々の幸福

を願うばかりである。

 

「ひとが迷信に心を動かされるのは、恐れの続いている間に限られる」スピノザ著 吉田量彦訳『神学・政治論(上)』p32

  

 

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