『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』ティム・バートン

作り込み

 

ティム・バートンは、よく作り込む。『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』も細部までよく作り込まれている。作家の個性を持った手作りの作品という言葉がしっくりくる。

 

井戸田潤はハンバーグ師匠というキャラクターを作り込んだが、ティム・バートンもなかなか負けてはいない。ハンバーグ師匠ほどの個性はないが、ティム・バートンもわるくない。よく作り込まれているほうだ。

 

個性というテーマ 

 

ティム・バートンは個性そのものをテーマにする。言い換えれば、人と違うことをテーマにする。他人を傷付ける危うさを持った個性を優しく受け入れようとする。そしてそれがファンに人気のポイントである。

ハンバーグ師匠もまた人と違っているが、ハンバーグ師匠がティム・バートンより優れているのは、個性をメタ的な視点からユーモアとして批判的にみる視点を持つところである。

 

批判の欠如

 

ティム・バートンの、人と違うことを表現しようとする執念深さは、ほとんど病的である。映画も長いし、ひたすらおなじことのヴァリエーション違いの繰り返しである。 

 

観客に感動をもたらすまでには至らない微妙なバランス感覚は、作品にたいする職人的気質のたまものではあるが、作品の見方に関する注意書きに不足しているため、「個性的」な人たちが陥りがちな批判的視点の欠如に気づかない。

 

間をおくこと

 

人と違うことや個性について、いったん深く考え直さないかぎり、ティム・バートンという作家は、たんに幻想的なファンタジー作家というありきたりな没個性の作家で終わってしまうだろう。

 

ハンバーグ師匠は、ハンバーグに関する微妙なギャグを言った後に、いったん間をおいて「ハンバーグ!」と言う。周知の通り、それこそが重要なのだ。ティム・バートンには、いったん間をおくことも、「ハンバーグ!」と言うことも欠けている。

 

 

ティム・バートン[映画作家が自身を語る]

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『ロラン・バルト 言語を愛し恐れつづけた批評家』石川美子

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ロラン・バルトはなにがしたかったのか?権威主義的なもの、多数派、単一性、そういうものが嫌いだっただろう。たいして繊細なもの、少数派、複数性、そういうものが好きだっただろう。

 

作者の死を持ち出すまでもなく、解釈の多様性の側に立つこと。言葉を権威から解放すること。柔軟で繊細で優美なものにすること。

 

ミシュレプルーストへの愛好がバルトの文章への傾向を物語っている。

 

シーニュというものがあり、それは解釈に開かれている。社交界シーニュ、歴史的出来事のシーニュ

 

シーニュとはつまり解釈のこと。つねに少数派で、複数であるもの。相撲や俳句や皇居もすべて解釈に開かれたシーニュであること。

 

サナトリウムでは1日のうち18時間もベットに横たわっていることさえあった。ミシュレの文章などの気に入った箇所をカードに書き写したりしていた。

 

母を中心とした優しい世界に暮らしてきた。母を失ってからは悲しい喪に服しつづけた。

 

権威の側に立っていたら、繊細で優美なものは見えないし書けない。言葉の単一性にとらわれていたら、魅力的な多様性のあるシーニュの解読はできない。

 

言葉にたいする恐怖と愛。それはそのまま世界にたいする恐怖と愛だ。世界というシーニュを、とらわれることなく多様な解釈に開いていくこと。

 

それは断片的なものや小さなものへのまなざしによっておこなわれる。ひとつのシーニュ、その解釈。気のおもむくままに、とらわれなく。概念の輪郭をぼやけさせること。閉じ込められた概念の檻の鍵を開けてやること。

 

 

 

 

 

 

 

弱い者にとっての「信仰」とはいったい何か?/マーティン・スコセッシ『沈黙』

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マーティン・スコセッシ監督の『沈黙』を観てきました。窪塚洋介が好きなのでミーハー気分にまかせて観たものの、予想以上に重い感じで観終わった後の余韻がすごい。

 

日本に布教に行ったフェレイラ神父という偉い神父が消息を絶ったことから、その弟子の二人が彼を探しに日本に行くというお話。いざ日本に着いてみると、日本の片田舎ではキリスト教が変な感じの土着の新興宗教みたいになってたりして戸惑いつつも宣教師二人は対応していく。そうしていくうちに片田舎の信仰リーダーみたいなおじいちゃんとかが大名にばれて信仰をやめずに殺されたりして、結局宣教師も捕まってしまう。消息を絶っていたフェレイラが寺で修行してて宣教師はがっかりするけど、目の前の信徒を苦痛から解放するために宣教師もキリスト教を背教することにする。

 

背教は踏み絵をするだけで形式的に認められるというイージーな感じ。だけどそれができずに処刑されていく信徒たち。宣教師たち。いまの普通の日本人にはよくわからない感覚。信仰のために死ぬということ。信仰って、苦しいことがいっぱいある人生を生き抜くためにするものなんじゃないのか?っていう単純な疑問を抱く。

 

真理は、生きたいということであって、特定の信仰形式を遵守することじゃない。生き方の形式は国ごと集団ごとに違う。西欧のカトリック的信仰形式をそのまま日本に適応することはできない。大名はキリスト教を悪だと決めてかかってたけど、それは政治的な熟議の上でのことで、信仰云々によってではなかった。当時の宣教師たちはたんに布教のやりかたをよく考えられていなかったとみることもできるかもと思った。異教というのは主観的な判断にすぎず、民族や国家ごとにそれぞれの正教があって当然で、生きるために普遍的なところを共有し改善していくことができればいいだけなのにそれができない。考えてみれば、不思議なことだ。なぜ、信仰は対立し合うのか?生きるためにがんばることでなぜ力を合わせることができないのか?みんな仲良くするべきだという幼稚園でも教わるようなシンプルな倫理さえ人間は実現することができない。

 

まあそれはいいとして、イッセー尾形窪塚洋介浅野忠信らの演技はとてもよかった。キャラクターに個性をもたらしている(あとで説明するが、それこそが演技の下手さなのである)。それにくらべるとアンドリュー・ガーフィールドリーアム・ニーソン、アダム・ドライバーらの演技は少し弱い。ほかのだれかでも代用が効く程度の演技だと思った(あとで説明するが、それこそが演技の上手さなのである)。

 

全編を通してキリスト教宣教師たちはとても弱く描かれている。思想の基盤すら脆くみえる。しかし、その弱さこそが、信仰の強さや普遍性を表しているとも思える。「こんな世の中で、弱い者の居場所はどこにある?」というキチジローの言葉が、強いメッセージとして印象に残った。思想的にも、権力的にも、弱い者。かれらのための「信仰」とは、いったいなんだろうか?

 

思うに、弱さはルサンチマンではない。ニーチェがそう言うようにキリスト教道徳はルサンチマン的支配の原理だと哲学界隈では周知されているが、おそらく支配と共存とはひとつの実践の言い換えでしかない。ルサンチマンの支配、ではなく、弱さの共存。キリスト教道徳については、そう言うべきではないか?弱さはそのままでは共存の力をもたない。そこで神という絶対的なものが取り入れられる。弱い者も強い者もひとしく従うべき神を想定することで、強い者の一人勝ちではなく弱い者にもまなざしが向けられる共存を実現できるとすること。

 

『沈黙』では、キリシタンを弾圧する井上の「石女は正妻となることができない」理論がとても真っ当な主張のように見える。しかし、そこでキリシタンと言われている無知蒙昧の民は、結局搾取されているだけだ。宣教師の布教は、一見他国からの侵略のように見えて、その実は支配そのものの解放と読むことができる。それゆえに、支配原理とは相容れない。そういうふうにも言える。仏教思想がキリスト教と対置されて描かれているが、問題は思想の対立にはない。むしろフェレイラ神父が寺で仏教を学ぶことでそうしたように、思想の対立をこえて共存することにある。

 

そう考えると、ほかの誰でも代用が効くようなリーアム・ニーソンやアダム・ドライバー、アンドリュー・ガーフィールドの演技が逆に説得力をもって見えてくる。弱い者とはまさしくほかの誰でも代用が効く者にほかならない。映画冒頭で映し出されるフェレイラ神父(リーアム・ニーソン)の、拷問に怯えきった表情。それをルサンチマン的な支配の方法だと見るものはいないだろう。いたら恐ろしい。「こんな世の中で、弱い者の居場所はどこにある?」という問いが強く迫ってくるいまだからこそ、わたしたちはもう一度あわれみの積極的な面にまなざしを向けるべきなのではないだろうか。

 

 

沈黙 (新潮文庫)

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